「北回帰線」を書いた,米国の作家ヘンリー・ミラーは,書くことに迷ったときには,「今,思い浮かんだことから書き始めれば良い」と言ったとのことを司馬遼太郎さんはその著書「街道を行く」の中で,書き始めに迷ったとき思い出すこととして述べられています。
昨年の春から全国で繰り返し脅威となったコロナ禍で,最も苦痛を感じたのは,旅という異空間移動ができなかったことです。ステイホームとなった時に,自宅で手軽にできる旅は「読書」と「映画鑑賞」及び「音楽鑑賞」ということになります。AMAZONPRIME,NETFLIX,YouTubeを活用することで,それが可能になりました。今回は,読書・映画・音楽に触れ感じたことを記してみました。
(ⅰ)読書感想文「三浦綾子 ~氷点~ を読んで」
何のきっかけか,三浦綾子という戦後から昭和の時代に生きた,北海道旭川市在住だった女性作家にめぐり合いました。その代表作は「氷点」です。映画やTVドラマにもなっていのですが,今まで一度も見たことはありませんでした。妻に「氷点」を読んだことがあるか聞いてみました。彼女は既に50年近く前の中学生の時に読んだとのこと。女子中学生が読む本なのか,とは思いましたが,今は便利な世の中,i-bookというシステムで,最初の数十ページは,無料で読めるのです。試しに読んでみました。ほぼ異国とも思える北海道の広々とした風景が目に浮かびます。何度も,読書を中断しては,Yahoo地図で,地名や地形,方角を確かめます。石狩川,忠別川の川面,その周りに広がる針葉樹林の原生林,芦別から美瑛へと連なる山々,南の空,遥かに見渡せる十勝岳。今まで一度も行ったことのない,雄大で見知らぬ景色が,次から次に頭の中に広がっていきます。地名もアイヌ語が語源なのか,ちょっと違った異国情趣の雰囲気です。読み進めるうちに,この作品が取り扱っているのは,キリスト教で語られる「人間の原罪」というものであることが,だんだん判ってきました。
人間が生まれながらにして持っている「罪」という考え方やその哲学には,これまで無縁の存在でいました。特に理由もなく避けて通っていたのかもしれません。読み進めて,「ヨハネによる福音書」なるものを調べる頃には,次第に自分もキリスト教徒になってゆく気がしていました。自分がこれまでにしてきたこと,怒りにまかせて言ってしまったことなどなどが思い出され,そのことがキリスト教ではとても重罪であるような気がしてきました。自分は既に神に呪われていて,未来永劫,地獄の輪廻の中をぐるぐる回るのが定めのような気がしていました。その絶望的な思いのまま,「氷点」から「続・氷点」へと読み進めました。主人公の陽子は自殺未遂のあと,ようやく元気になり,北海道大学の文学部へと進みます。義兄の徹や,以前恋人だと思っていた徹の友人の北原,父違いの弟・達哉などとの間に,いろんなすれ違いや思いのズレが起こります。2転3転4転くらいしたあと,陽子のために足を失ってしまった北原とともに生きていく決心をします。
最後には, 網走の沈み行く夕日の中で観る流氷の景色が出てきます。流氷の氷原の中に, 次々に血の滴り落ちるかの様な反射光が, 次々と現れては消え,現れては消えていきます。流氷が燃えるようにみえるのだそうです。読み終える頃には,そのダイナミックで,途方もない景色を私も見に行こうと,固く決めていました。この,コロナ禍が終わったあとに。
(ⅱ)映画感想文「起終点駅~ターミナル」
この映画には,桜木紫乃原作の小説から入りました。篠原哲雄監督,男優,佐藤浩市,中村獅童,女優,尾野真千子,本田翼のキャストです。北海道,道東の釧路が舞台です。原作と映画では, 過去の出来事からの経過時間に5年のズレがあります。主人公は,佐藤浩市演じる鷲田完治という男で,法では裁くことのできない,どうにも取り返しの付かない過去をもつ,60歳の弁護士です。25年前までは裁判官でした。自分の暗い過去を悔いてか,今では国選弁護しか引き受けません。釧路の街はずれの一戸建ての,朽ち果てた平屋に一人で住んでいます。
鷲田は毎日,国選弁護人として,自宅から釧路地方裁判所まで徒歩で通勤します。途中,太平洋に面した幣舞橋(ぬさまいばし)という橋を通ります。幣(ぬさ)とは,アイヌ語で罪や穢れを払うために神前に供えられる供物のことだそうです。橋脚上には,彫刻「道東四季の像」と名付けられた,乙女の四体の裸像が建っていて,それぞれに季節の名がつけられています。街はずれの自宅の狭い6畳間のリビングにソファを置いて,そこで食事もします。そのまま眠ってしまうことも多くなりました。人付き合いがしたくないので外食をすることもなく,手持ちぶさたに始めた手料理は新聞のレシピ欄が頼りです。切り抜き,貼りつけたスクラップブックは, 既に6冊目となりました。一回作る度に正の字を書いているうちに手料理を作ることが唯一の趣味となっていました。得意の料理は「ザンギ」とよばれる釧路地方発祥の鶏の唐揚げです。
鷲田はあるとき,覚醒剤取締法違反で逮捕された, 本田翼演じる25歳の女性の国選弁護を引き受けます。その女性が裁判終了後,自分の家を訪れ,ひょんなことから一緒に自分の作ったザンギを食べることになりました。一緒に食べているうちに,鷲田は自分の暗く悲しい過去が次第に解きほぐされていくような気分を感じるのです。
彼女の目は,25年前, 旭川の地方裁判所で自分が裁判官であった時,この女性と同じく,覚醒剤取締法違反で自ら判決を下した女の目と似ていました。尾野真千子が演じるその女とは,その裁判から更に10年近く遡った,自分の司法試験合格発表のあった後に,忽然と姿を消した自分の同棲相手でした。親からの仕送りの途絶えた自分を,自らは大学を退めてスナック勤めをしながら支えてくれた女性だったのです。忽然と姿を消したあと,いろんな手がかりを元に探しましたが,どうしても見つけることができなかったのです。その女性に法廷で再び出会った時には,既に,鷲田には上司の勧めた女性との間に5歳になる男の子がいました。妻と子どもを捨てその女性と再び一緒になる決意をした鷲田は,地方の街で弁護士をして生活をしようと,女性と一緒に留萌の駅のホームに立ちます。雪の降りしきる向こう側から,電車が次第に近寄ってきます。ホームに停車しようとした,その瞬間,女性は線路へと身を投げます。それ以来,鷲田は裁判官を辞め,家庭も棄て,JR線最終ターミナルであった釧路で,養育費を払うためだけに働く弁護士としての日々が始まり,早や25年が経過したのです。
その後も何度か一緒に自分の手料理を美味しく食べてくれた本田翼演じる女性に,その女性の実家に連れていってもらえないかと頼まれます。彼女の実家は,釧路市の近くの厚岸というひなびた漁村の町でした。河口沿いの,車の幅ギリギリの草に囲まれたじゃり道を行くと,今では廃屋となった実家が現れます。クモの巣をかきわけながら自宅の中へ入ると,仏壇には真新しい位牌が3つおいてありました。その女性の両親と,女性の兄と中学の時の自分の同級生との間にできたこどもの位牌です。こどもは3歳で女の子でした。亡くなった日が3人とも8年前の同じ日でした。3人の位牌を自分のバッグに入れたあと,故郷を捨てる決心をした女性は,最後に釧路駅まで連れて行ってくれるよう頼みます。
釧路駅で,自分に抱きつきながら「また会いに来てもいいですか」という女性に, 鷲田は「生きてさえいればいい、何があっても,絶対に帰ってくるな」と叱責します。女性は,駅へと向かい歩き始めます。弁護士の目はその姿を追いますが,女性はとうとう最後まで後ろをふり返らず駅の中へと消えていきました。
彼女を見送ったあと,自宅へと帰った鷲田は,それまで頑なに出席を断っていた,5歳の時棄ててきたままの息子の結婚式に出席する決意をします。そして25年前に降り立ったまま,一度も乗ることのなかったJR線のホームから東京へと再び起き上がるように旅立ったのです。車窓から流れる景色が,25年前の罪と,自分の25年間のつぐないを洗い流してくれているような気がしていました。
(ⅲ)音楽感想文「砂時計・シングルアゲイン・告白」
「砂時計」は,徳永英明作詞・作曲の歌で2009年4月にリリースされたシングルです。今は便利な時代で,聴きたい曲はすぐにYou Tubeで検索できます。何回か,繰り返し聴いていると実に切ない曲であると感じます。テーブルに砂時計の置いてあるバーで,とある大手商社の総合職の彼は,同じ会社に勤める事務職の「私」に別れ話を切り出しました。慌ただしく話を切り上げて帰ろうとする彼に,納得できない私はもう少し待ってとすがります。彼は,あと5分だけ待つよと,砂時計を裏返しました。別れの理由を口ごもる男性の表情を見て,別の女性の存在を感じた私はそれ以上の理由を聞くことができずに諦めます。そして,これからの生活をまた一人で歩んでいくことを決意するに至ります。
その日から3年が過ぎました。「私」は,時々彼への思いを引きずりながらも,徐々に元気を取り戻していきました。一人暮らしの生活にも再び慣れ,友人たちとの食事が,一番の楽しみです。でも,一人また一人と結婚が決まり,食事会に参加する人数が次第に減って行くのが辛くなかったといえば嘘になります。そんなある日,友人の一人から, 3年前に自分と別れて,常務取締役の娘と幸せな結婚をしたと聞いていた彼が,最近,離婚をしたという話を聞きました。
「シングル・アゲイン」は,1989年9月リリースの竹内まりや作詞・作曲のシングルです。火曜サスペンス劇場の主題歌にもなりました。
自宅アパートに帰って,彼も,また,独身に戻ったのか(シングル・アゲイン)と思うと,ようやく忘れかけていた彼への切なく甘い思いや,果たせなかった約束が少しずつよみがえるような気もしてきます。彼の離婚の理由は,妻の本気の恋だったということも風の便りに聞きました。彼も私と同じ様な辛い思いをしたんだなと思った時,もし寂しくなったのなら,私のことをまた思い出して,電話くらいしてくれてもいいのにと思ってしまった夜もあります。でも,それから,何となく安心して眠れる夜もふえてきました。
「告白」は,シングル・アゲインの翌年の1990年に,同じく,竹内まりや作詞・作曲で作られたシングルです。この曲も火曜サスペンス劇場の主題歌となっています。
自宅アパートでその夜はなかなか眠れずにウトウトしていた時,ベッド横の収納棚の上に置かれた電話が鳴ります。こんな時間に誰だろう,実家の親に何かあったのでは?と思いながら受話器を取りました。彼の低く懐かしい声が耳に飛び込んできます。一人で飲むバーからの電話でした。酔っていることがその口調から分かります。彼は,「寂しくなって我慢できずに思わず電話をしてしまった。元気でいるのか?」と私に尋ねます。私の後ろに男の気配がないかを探る様な空気が分かります。その気配が無いのが分かったのか「自分がやっぱり本気で好きだったのは」と,今更聞きたくないような言葉をつらねます。その彼の声に,優しく,しかし勿体ぶった受け応えをしながら,やっと,彼に本当の「さよなら」の言葉を告げることのできる自分を感じていました。
20代から30代の混沌とした日々には,人は皆,同じような経験をするのかもしれないと思いながら,空想をめぐらしてみました。
天草医報2021年5月号へ掲載 2021年2月14日校了
掲載情報
掲載誌 | 天草医報 |
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掲載号 | 2021年5月号 |
発行ナンバー | 144 |