チャコの思い出 ~後編~

出産から約1か月後、子犬が、両の手のひらで抱えられるくらいの大きさに育った頃には、こどもたちが、勝手に子犬達にそれぞれ名前を付けていた。雑種とはいえ柴犬の子犬は、実に可愛い。毛色もそれぞれに異なっていた。実は、私には、オス・メスの見分けがきかず、というか、オスとメスを全く逆に判別してしまっていた。人に見てもらって、オス・メスの再判定がなされた頃、その名前も、こどもたちにより再び変更された。「信長」や「ドドリア」。「ララ」や「リリー」やらの名前を覚えている。7匹のうち、生後1か月で既にオスの3匹は、やはり骨格も太く、メスの4匹は、やや華奢だった。なかでも「リリー」と名付けられた一匹のメスは、他の3匹のメスより一回り小さく、いつもふるえており、チャコのおっぱい争奪戦では、いつも最後にやっとありつけている様子だった。

2~3か月程たち、子犬が普通のエサを食べるようになった。7匹の子犬を、そのまま全部、自分で育てる訳にもいかず、知り合いの大工の棟梁に相談した。妻も、勤め先の職員に話をした様子だった。そうして、3匹のオスは、それぞれに引き取られていった。うち一匹のオスは、その棟梁に引き取られた。

後に、4匹のメスの子犬が残ったある朝のことだった。庭に犬の気配がない。探すと、エアコン室外機の狭間にリリーだけが残っていた。やはり震えていた。外を探すと、母犬のチャコは、玄関口とは反対の、庭の端から外へ繋がった、わずかな隙間に挟まって居た。他の3匹のメスは、居なくなっていた。妻を呼び、こどもたちも呼び、皆で必死になって、いなくなった3匹のメスの子犬を探した。裏の防波堤、家の周囲の畑、車で苓北、志岐の町中も一生懸命に探した。出勤前の朝も昼休みも、帰宅後の夕方も探した。翌日も翌々日も探した。しかし、その3匹のメスの子犬は、どうしても見付からなかった。誰か、犬好きな人に拾われて、可愛がってもらっているよねと、家族で話し合った。今昔物語集に出てくるような、鳶にさらわれたかもということは、恐くて口に出せなかった。

こうして、庭にはチャコとリリーの親子だけが残った。その数ヶ月後くらいだったろうか。一戸建ての医師住宅から、マンション型の医師住宅へ、移り住むようにとの指示があった。本渡の実家は、既に取り壊し、アパートを建てていたので、チャコとリリーを住まわせる庭は既になかった。仕方なく、私の子どもたちの世話のため熊本市内に移り住んでいた両親のために、荷物置き用にと借りていた、本渡の小さな戸建ての借家の軒先に無理矢理住まわせた。その家には当然、誰も住んでおらず、毎日夕方、餌を与えるために通った。軒先に厳重に閉じ込めていた筈なのに、勤務後、急いで借家を訪ねてみると、またしても、玄関先に二匹並んで、座って待っていることがしばしばあった。家の裏側の狭い隙間を通って出てきていたろうと思う。再び大工の棟梁に相談し、最後に残ったリリーもどこか、適当な処へ引き取ってもらうことにした。本渡の南地区山口の、棟梁の知り合いの方へ引き取られることが決まった。

その日の夕方、病院から本渡の借家へ行くと、棟梁は既に軽トラックで待っていてくれた。チャコの横に坐る、その頃にはチャコの半分くらいの大きさにまで育っていたリリーを抱き上げて、トラックの荷台に載せた。

軽トラックが動きだすと、チャコは吠えもせずに、リリーを見つめていた。リリーも黙ってチャコを見つめていた。それが、チャコとリリーの永遠の別れだった。

翌年の1月、五和町二江の診療所を承継して開業医となった。春頃、先の先生御夫婦は、新築された家へと引っ越しされたため、本渡の借家に、一人取り残していたチャコを二江の診療所裏の住居へとつれて来た。妻も、苓北の医師住宅を引き払い、二江の住居へきた。こどもたちは皆、学校で、他所に出ていたため、夫婦とチャコだけの生活だった。多忙でもあり、心に余裕もなく、なかなかチャコの面倒をみてやることが出来なかった。夏場には、脱水症と思われる症状を呈してしまったこともあった。後ろ足がカクンと折れ曲がるのである。

そのうち、診療所の住居部分を、病棟へと増築。診療所横の土地を購入し、自宅を新築したため、チャコもそちらへ移った。

冬場の厳冬期の夜、家の裏の軒先に置いた、プラスチック製の犬小屋の床を「ギィーギィー」とよく引っ掻く音がしていた。あとになって、あれは、寒さからだったろうと思うと心が痛む。その頃チャコは既に15歳であった。「犬、年齢、換算」でググると、小~中型犬の場合は、「(犬の年齢+4)×4」であるので、人間ならば既に76歳程の高齢者になっていた筈である。それから2年程、一緒に過ごした頃、チャコに老衰と思われる症状が出現してきた。

どこかが痛むのか、鳴き続けたり、その頃に住まわせていた、自宅玄関の床をウロウロ歩き続けるのである。歩き続けると云っても狭い場所なので、靴箱に突き当たる。妻は工夫して、段ボール箱で迷路を造ったようだった。それならどこにも突き当たらず、歩き続けられるのである。その後、しばらく、玄関に置いたマットの上で寝起きしていたが、次第に餌を食べなくなり、妻と長女に看取られて、死んだ。17歳だった。長女が、佐伊津のペット霊園を探し、そこで夫婦と長女の三人で荼毘に付した。かわいい、骨壺にも入れた。二江の自宅の仏壇の戸棚に入れておいた。今では、新たに造った本渡、大矢崎の墓所の中で、私の父の骨壺の横で眠っている。

 チャコが死んでしばらくしてからだったと思う。何かの用事で、西の久保トンネルを通り、山口地区を車で走っている時だった。薄暗くなりかけた夕方だった。田か畑の脇道に、可愛い、両手のひらにのるくらいの柴の子犬を偶然見つけた。周りを見廻してみたが、人の姿も、親犬の姿も見えない。車を停めて、震える子犬を抱き上げた。するとその傍に、もう一匹、毛色の違う柴の子犬が居た。もう一度見廻してもやはり、周囲には、人の姿も親犬の姿もない。捨てられたのかと思い急いで車に乗せた。「ミューミュー」と懐かしい声で鳴いた。車を発進させ50mくらい行くと、枯れた畑の中に、成犬の柴犬が坐っているのを見つけた。しかも、その足元には、私が拾った、先程のと同じくらいの子犬がもう2匹いた。親犬に違いないと思った。親犬は、私の方をじっと見ていた。子犬を持ち帰るのを諦めて車を止め、車内の2匹の子犬を離した。子犬は、その成犬へと走って行った。それでも、その、母親と思われる成犬は、じーっと私の方を見ていた。無事に子犬を返してあげて良かったと思った。

 その後、ふとした折り、あの母親の犬は「リリー」だったに違いないと、確信めいた閃きがあった。証拠はない。じーっと私を見ていた目がチャコとの別れの時のリリーの目を思い出させたからかも知れない。ただ、ただ、「リリー」が私に、自分の生んだ子犬を見せにきてくれたのだということしか、思えなかった。

掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2022年1月号
発行ナンバー146
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