20年前に開業医となった。開業し2〜3年過ぎた頃から、調子に乗って、博多、中洲通いを始め た。一度やってみたかったのだ。40年前、福岡市で研修医であった頃、指導医だった先生に、よく 連れて行かれた辺りを彷徨うようになった。
そのうち、高級クラブへも出入りを始めた。訳も分らず、クラブのホステスの言うままにシャンパ ンを開けていた。
その当時、ドンペリ白は、通販では約15,000円程で買えていた。それを、クラブで開けると一本 50,000円となる。ドンペリロゼ(ピンク)は、通販価格で、約25,000円。クラブで栓を抜くと、一本 80,000円だったことを覚えている。
のぼせて通ううちに、そのバカバカしさに気付き、通うのをやめた。
食後、しかも、すでに酔った状態で、飲んでいたドンペリは、味も香りもわからなかった。わから なかったので、そのうちに、シャンパンを飲むことを止めた。
ただ、妻の小・中学校の友人が、北九州市から天草へと遊びに来ると、シャンパンを開けた。都 会からやってくる熟女は、シャンパンが好きである。その御相伴にあずかっているうちに、あること に気付いた。シャンパンからは、花の香りがするのである。主に開けていたシャンパンは、モエ・ シャンドン(以下モエと略)の白かロゼだった。ドンペリと同じメーカーのものである。
モエの白は、大体5,000円。ロゼで8,000円くらいで、本渡の酒屋でも買えた。
ところで人生には、色気が必要である。色気を象徴するものが「花」である。「花」の色気は、普 通は観ることか、匂いを嗅ぐことでしか、得ることは出来ない。ところが、シャンパンを飲むことで、 その「花」の色気というものを、口にし、自分の体内へと導き入れられるのである。
白とロゼで、香りは異なる。白は最初から乙女のような淡い香りが漂うし、ロゼからは濃密な香 りが漂う。味の違いは、まだはっきりとは説明できない。
初夏になると、福岡のホテルオークラのメインロビーの巨大な花瓶には、必ずユリが、メインの 花として飾られる。ロビーに漂う花々の香りを嗅いでいるうちに、突然、シャンパンのロゼの栓を開 けてシャンパングラスに注いだばかりの匂いを思い出したのである。ユリの花の香りがしたあと は、レモンのような柑橘系のさわやかな匂い、そのうち、バターのような匂いもしてくる。
今年5月、久し振りにAmazonで、モエのロゼを、6本まとめ買いをした。1本5,980円だった。ロ シアのウクライナ侵攻開始後、3か月ほど経過し、TVのニュースは、毎日、その戦況と、ガソリン の値上がり、円安の進行や物価上昇の話題でもち切りだった。
6月に入り、妻の友人が2人、北九州、福岡方面から久しぶりに遊びに来た。自宅にてウェルカ ムドリンクとしてシャンパンを開けた。温泉に入ったあと下田ブルーガーデンに、簡易チェアを持ち 込み、2本目を開けた。
梅雨明け後の7月に入り、海と空のあまりの青さに居ても立っても居られず、手練れ先輩医師を 応召し、茂木根海岸で3本目を開けた。残り少なくなり、再び追加注文しようと、Amazonを開い た。同じモエ・ロゼの最安値価格なのに、1本9,500円が、最も安い値段だった。たった2か月で 5,980円から9,500円への値上がりである。
シャンパンは栓を開けたら、ほぼ30分で飲みきらなければならない飲み物だ。何か月も保つ焼 酎やウイスキー、ブランデーとは異なる。
その他のシャンパンの値段も調べてみた。かつて、15,000円だった(10数年前だが)、ドンペリ 白は35,000円。ドンペリ・ロゼに至っては、55,000円もしている。とても、気安く買える値段ではな くなっていた。 そこで、ふと思いあたった。本渡のあの酒屋を兼ねたスーパーでは、どうなっているのかと。あま り、シャンパンは動いていないのでは?と。
7月初旬のある木曜日の夕方、そこを訪ねた。入り口を入り、右手の薄暗いコーナーへと踏み 入った。案の定、その一角は、埃をかぶったままで値札もそのままだった。財布をあけ、残額を確 認。カゴに4本のモエ・ロゼを入れ、レジへ行った。レジ係の姉さんからは、マスク越しに、「お店の 方ですか?」と尋ねられたため、顔を横に振ったが、一応領収書をくれた。その棚には、合わせて 20本ほどの、白、ロゼ、ネクター白、ネクターロゼ、アイスと、5種類ほどのモエと、さらにヴーヴ・ク リコのイエロー、ロゼが、7-8本在庫されていた。
翌日の金曜日の昼、なけなしの現金を握り、買い物カゴをぶら下げて、再度、同じ店へ突入し た。
ヴーヴ・クリコを中心に、5本程手に入れた。 その日の夕方、再度、突入した時だった。レジ係の40代くらいの女性と20代くらいの女性が、手 をつないで、私が、シャンパンコーナーへ入るのをせき止めた。「さっき、急に飲み屋さんから注文 が入りましたので」と云われ、20代女性の方が、先にシャンパンコーナーへ走って行った。私が、 そのコーナーへ到着した時には彼女は既に、残ったモエ・ロゼとヴーヴ・クリコ・ロゼを、すべてカ ゴに収め、ホッとした顔でこちらに微笑んだ。
あまりのことに面食らい、そこに残っていたヴーヴ・クリコのイエローと、モエ・白を全てカゴに入 れ、レジへと向かった。頭に血が登ったのかもしれない。どこの飲み屋から注文されたのかを尋ね た。彼女は、諏訪神社の近くに、きょうオープンした店からであることを教えてくれた。あの棚に は、あと5~6本のモエやブーブが残されていることを目の端に捉えていた。
さらに翌日の土曜日、診療後、再度、そのスーパーへと踏み込んだ。カゴをつかみ、薄暗いシャ ンパンコーナーを目指した。到着してみると、そこにはわずかに、モエのネクターが1本と、アイス が1本、わびしく残されていた。その周囲に積まれた段ボールの中のシャンパンの確認作業を始 めた。無造作にシャンパンやスパークリングの入れられた段ボールの中から、わずかにモエのロ ゼを1本とヴーヴ・クリコ・イエローを1本探し出した。棚にそのまま残っていたモエのアイスとネク ターも当然カゴに入れてレジへ向かった。 レジでは、またも20代女性が待っていた。何で品物が消えたのかを聞いた。昨日私が夕方、3回 目のガサ入れを行ったあと、再び、飲み屋さんから注文が入ったというのだ。嘘かもと思いつつ も、カゴに入った4本の会計を済ませた。もう、品物はこれ以上入荷される予定はないことを告げら れた。倉庫に隠していないかと尋ねたが、あっさり否定された。 こうして、我が自宅には、合計20本ほどのシャンパンが、置かれることになったのである。今後 10年程かけて飲んでいくつもりだ。
心残りは、あの棚に一本だけ淋しそうに放置されたままのドンペリ・ロゼである。値段は45,500 円。Amazonでは、その年のロゼは、98,000円の値段で売られていた。
掲載情報
掲載誌 | 天草医報 |
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掲載号 | 2022年9月号 |
発行ナンバー | 148 |