昨年の八月初旬、旅行中の妻の代診として十万山クリニックで診療をしていたとき、診察室の隅で携帯電話が鳴った。
画面に表示された名前を見て、胸の奥がわずかに縮んだ。
福岡で小児科研修医をしていた頃、指導していただいたK先生の名前だった。
電話に出ると、落ち着いた女性の声がした。
「中村先生でしょうか。私、Kの三女のY子です」
遠い時間が、一気にこちらへ倒れ込んできた。
研修医時代、先生の自宅に何度も泊めていただいた。幼かった三姉妹の声や、廊下の明かりの匂いまでが、突然よみがえった。
嫌な予感を押し殺すように、私は尋ねた。
「……何か、ありましたか」
「父は、十年以上前に手術で一度は治った癌が再発し、いま高カロリー輸液で入院しています。念のため、ご連絡しました」
それだけだった。
それだけなのに、診察室の空気が急に重くなった。
K先生は、私たち夫婦の仲人でもあった。研修医を終えてからも折に触れ、福岡の料亭に連れ出してくださり、天草にも何度か遊びに来てくださった。小倉で小児科医院を開業されたあとも、その距離は縮まらなかった。
——会いに行かなければならない。
理由は考えなかった。
お盆前の連休は、偶然にも空いていた。同期のTに連絡を入れた。彼もまた、K先生のもとで研修を受けた一人だった。
八月九日の夜、博多でT夫妻と食事をし、翌朝、Tと我々夫婦の3人、新幹線で小倉へ向かった。
十日正午、博多駅の空は小雨だった。白いビニール傘を手に持ったが、さすことはなかった。
病院のロビーで娘さんと会った。
最初はTが病室へ入った。戻ってきた彼の顔を見て、胸の奥で何かが静かに崩れた。
病室のある階でエレベーターを降りる。
ナースステーションのすぐ横、四人部屋。
薄青い病衣を着た懐かしい顔が、ベッドの上でこちらを見ていた。輸液スタンドを右手で支えながら、かろうじて身体を起こしておられるように見えた。
言葉が、見つからなかった。
「お久しぶりです」と言えばよかったのかもしれない。
「先生」と呼べばよかったのかもしれない。
だが、どれも嘘になる気がした。
私たちはただ、黙って向かい合い見つめ合っていた。
腹の底から、重たい感情がせり上がってきた。悲しみとも恐れとも違う。しばらくして、それが自分自身の死を想像している感覚だと気づいた。
——次は、自分の番かもしれない。
そう思った瞬間、私は医師ではなくなっていた。
妻がそっと私の手を取り、先生の手に重ねた。
三人の手が、無言のまま重なっていた。
どれくらいの時間だったのか、わからない。
「……また来ます」
それだけ言って、病室を出た。
次に会うときの光景を、互いに口に出さず、しかし確かに理解していた。
そのあと、外は豪雨になった。
新幹線は運転を見合わせ、私たちは小倉に足止めされた。
不思議なことに、焦りはなかった。
偶然連絡を取った妻の友人Rが現れ、居酒屋へ、バーへ、そして彼女の家へと流れ着いた。雨は激しさを増していたが、アーケードの下を歩く私たちは、ほとんど濡れなかった。
夜更け、土砂降りの音を聞きながら眠った。
翌朝、新幹線は動き始めた。
博多へ戻る車窓から、氾濫した川が何度も見えた。
天草では、お盆前の帰省で福岡から帰っていた息子夫婦が大雨に閉じ込められていた。
庭は水に沈み、停電と雷の夜を過ごしたという。
九州自動車道は大雨のため菊水インターと八代インター間が通行止めになっていた。天草五橋も途中の土砂崩れのため通れなかった。
私たちは長崎自動車道で諫早を経由し、口之津港からフェリーで帰宅した。
自宅は無事だった。
柴犬のモモちゃんは、いつも通り元気だった。
その夜のニュースで、天草と八代を中心に甚大な被害が出ていたことを知った。
三日間。
豪雨の中を移動しながら、私は一度も傘をささなかった。
守られたのだろうか。
偶然なのだろうか。
そう考えながらも、胸のどこかに、居心地の悪さが残っている。
あの病室を出たとき、私は確かに、生き延びてしまった側の軽さを感じていた。
被災された方々には、言葉もない。
それでも私は今日も、雨の中を歩いている。
傘を手に持ったまま、開く理由を見つけられずに。
