(ⅰ) シャトー・ラトゥール1998
なにがきっかけだったのだろう。
十九年前に預けたままの一本のワインのことを、突然思い出した。
ホテルオークラ福岡の裏手、博多リバレインの二階にあるフレンチレストランに、私はシャトー・ラトゥールを一本、眠らせていた。預けた当時、妻と二人でシャトー・マルゴーを飲みながら食事をし、その流れで、シャトー・オーブリオンとシャトー・ラトゥールを「いつかのため」に残したのだった。
オーブリオンの方は、義父が生前もっとも愛したワインで、十年ほど前、まだ元気だった義父と妻と三人で開けた。だが、ラトゥールだけは手つかずのまま、年月だけが過ぎていった。コロナ禍、地震、豪雨――理由はいくらでも思い浮かぶが、要するに、行くべき時を逸していたのだと思う。
去年の八月、お盆前の連休に、大学同期のT医師夫妻と食事をすることになった。筑豊に住みながら福岡にも拠点を持つ夫妻だ。私は、あの一本を開けるなら今しかないと思った。
予約は土曜の夜七時。十九年前にキープした「シャトー・ラトゥール1998」を用意してほしいと、事前に伝えた。
当日、午前の診療を終えて博多へ向かった。天草ハイヤ踊り大会を見られないのが、少しだけ心残りだった。下呉服町の自宅に着いたあと、中洲川端の馴染みのタイ古式マッサージで身体をほぐし、夜に備えた。
六時半、ホテルオークラのロビーでT医師夫妻と合流し、四人でレストランへ向かった。
案内されたのは、奥まった個室だった。四人掛けのテーブルの端で、細長いろうそくの炎が揺れている。濃色の天然木のキャビネットが壁際に据えられ、数脚のグラスだけが静かに収まっていた。その空間は、これから開けられる時間の重みを、すでに知っているかのようだった。
チーフ・ソムリエが、ラトゥールのボトルとシャンパンリストを持って現れた。高価なものを選ぶつもりはなかったが、目に留まったのはドン・ペリニヨンの白だった。二〇一三年のヴィンテージ。中洲のクラブより安い価格に、私は小さく頷いた。
音を立てずにコルクが抜かれ、グラスに泡が注がれる。右手に持ったボトルを反時計回りにクルッと回す所作に、長年積み重ねた技が滲んでいた。そのせいで、滴は溢れず再びボトルに戻るのだ。
やがて、シャトー・ラトゥール1998は、大きなデキャンタにすべて移された。澱を残すための、ほとんど祈りにも似た動作だった。
料理の記憶は、ほとんど残っていない。ドン・ペリを飲み終えようとした頃、ソムリエがラトゥールを私のグラスに少量注いだ。その瞬間、隣に座る妻が、思わず声を上げた。
「……わあ、いい香り」
このワインは、瓶詰めから二十七年。私たちが購入してからだけでも、十九年の時間を、暗闇の中で耐えてきた。コルク越しに入る、わずかな空気だけを頼りに。
ふと気づいた。
妻もまた、この十九年の間、心の奥底で様々な思いを発酵させてきたのではなかったか。言葉にされないまま、澱となり、香りとなる時間を。
シャトー・ラトゥールと、妻の人生の何かが、その瞬間、共鳴したのだろう。だからこそ、あの声は、あれほど自然に、あれほど美しく響いたのだ。
人が生きる中で味わう苦味や渋みは、葡萄の酸やタンニンに似ているのかもしれない。時間の中で熟成し、やがて、思いがけないほど豊かな香りへと変わる。 私はグラスを傾けながら、そう確信していた。
(ⅱ)黒アゲハ蝶
あれは昨年九月の終わり頃だったと思う。
夕方のまだ明るさが残る時間、いつもの温泉で湯に浸かっていた。
内風呂の壁となっている一面のガラスの向こうは、林に囲まれた露天風呂だ。内風呂でぼんやりと天井を見上げていると、視界の端で何かが動いた。
黒アゲハ蝶だった。
大きな翅を広げ、ゆっくりと、しかし確かにこちらの空間を横切っていく。内風呂脇の窓が少し開いていた。そこから迷い込んできたのだろう。
湯の中で身動きもせず、その姿を目で追った。
蝶はやがて、透明な隔壁の向こう、露天の明るさへ向かって飛んでいく。
次の瞬間、鈍い音もなく、翅がガラスに遮られた。落ち、また舞い上がり、再びぶつかる。
その動きを、何度も繰り返した。
外は見えている。すぐそこだ。
それでも、行けない。
不思議なことに、その光景から目が離せなかった。
黒アゲハ蝶の動きが、いつのまにか自分の内側の感覚と重なっていった。
これまで、自分は不自由だと思ったことはなかった。
仕事をし、生活に困ることもなく、思い立てば好きな場所へ出かけることもできる。
それでも、どこかで立ち止まっている感覚が消えない。
何が見えていて、何に遮られているのか。
自分でも、うまく言葉にできない。
仕事を終えたあと、自分はどこへ向かうのだろうか。
それを思い描こうとすると、視界が白く曇る。形を結ばない。
進めない理由は、何かの壁のせいなのか、それとも、行きたい方向を決めていないだけなのか。
湯気の向こうで、黒アゲハ蝶はしばらく翅を休めていた。
そして突然、思い出したように向きを変えた。
入ってきた窓へ。
何事もなかったかのように、すっと外へ出ていった。
湯の中には、もう何も残っていない。
ただ、ガラスの向こうの林が、先ほどと同じように静かに揺れていた。
