幸せのカタチ Ⅱ「 POLARIS」 

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ちょうど30年前の10月の終わりだった。私は、大分市の看護学校を卒業して5年目、26歳の看
護師だった。私が、「海が見たいな」とふと言ったことを智則は覚えていてくれた。その週末は、私
の方は、ちょうど休みとなっていたのだろう。彼は、退院して間もなかったからか、アルバイトをしな
がらもまだ定職には就いていなかった。
彼が、私の勤める福岡市中央区にある総合病院に入院してきたのは、その5か月程前の梅雨
入りの頃だった。救急外来に運ばれたあと整形外科病棟に入院してきたのだ。バイクの転倒によ
る右下肢の複雑骨折と全身打撲だった。母親の姿をみつけて横断歩道から飛び出した6歳の女
の子を避けようと転倒したのだとか。女の子の母親が女の子と一緒に何度かお見舞いに来ていた
ことを思い出す。3人でいつも賑やかそうに笑っていた。
その頃、私は、同じ病院の6歳年上の整形外科医とまだ付き合っていた。名前は、西田といっ
た。
もう、かれこれ2年も続いていた。同じ整形外科病棟に勤める、私の後輩の看護師と最近付き
合っているらしいとのうわさが広まったのは、丁度その頃だった。
時々西田が連れて行ってくれた桜坂のイタリアンレストランに、同期に入職した友達と一緒に
行った時だった。楽しそうに笑いながら一緒にワイングラスを傾けている二人を見た。

責めるたびに、彼の顔が強張っていく。だって、この2年の間、私達は、夜毎、大濠公園の近くに
あった私のアパートで、愛し合う日々を送ったのだ。毎日、毎朝、一人きりのアパートで、鏡を見て
は、うらみ言を自分の顔に吐き続けた。鏡に映った自分の顔が嫌だった。辛い日々が続いたよう
な気がする。その頃だったのだ。智則が入院してきたのは。
智則は、福岡市内の私立大学を中退していた。オートバイ好きが昂じてのことだったらしい。私
より4歳年下の、まだ少年のあどけなさの残る白い顔をしていた。その頃に流行っていた歌手の尾
崎豊にちょっと似ていると思った。入院の初めの頃は、私たち看護師の手を借りないと、トイレにも
行けなかった。
入院して、しばらくしてからの頃だったろう。私が、ベッドサイドに経過観察に行くと、満面の笑顔
で待っていてくれるようになった。私はきっと、いつも暗い顔をしていたはずだ。彼の入院から、3か
月後くらいの、彼がリハビリを頑張っている頃だった。夏空が輝くような暑い日だったと思う。私
が、彼の病室を訪問した時だった。突然、封筒を渡された。開けてみると「自分と付き合ってもらえ
ませんか」とだけ書かれた便箋が入っていた。失礼な奴だと思いながら、その手紙をまるめて、
ナースステーションのクズかごに捨てたような気がする。
退院の日は、久留米の実家から彼の母親や、オートバイの友人達がたくさん来ていた。6歳の
女の子と、その母親も、一緒に退院のお祝いに来ていた。とてもにぎやかな退院だった。数人の
看護師とともに、私も見送りに出た。その和やかな雰囲気のふとした隙だったろう、またしても、智
則から紙を渡された。あとで見ると「090」で始まる、見慣れぬ11桁の数字と彼の名前(濱田智則)
だけが書かれてあった。
「西田のことはもう、諦めたほうがいいのかなぁ」と考えていた。諦めるきっかけも欲しかった。寂
しかったのかもしれない。数日後、智則に思わず病院の公衆電話から電話をしてしまった。
その日、彼は仕事帰りの私を職員通用口まで迎えにきた。いきなり天神の屋台へと連れて行か
れた。屋台は3次会か4次会用の場だと、それまでは思っていたのでびっくりした。彼は私には全
然判らない用語で、オートバイの話しばかりしていた。「リーンイン」や「リーンアウト」などの言葉を
なんとなく覚えている。
それから、毎週の様に、連絡が来て、私もなんとなく誘われるままに逢った。親不孝通りにあっ
たディスコクラブにも連れていってくれた。彼がカラオケを歌う時にはいつも、尾崎豊の「卒業」を
歌っていたことを思い出す。年下の彼なのに、一緒にいると、安心している自分に気付いた。2年
以上も付き合った西田のことはもう諦められるような気がしていた。連絡もしばらく途絶えていた。
何かのきっかけが欲しかったからかもしれない。智則に「海を見につれていって」と頼んだのは、
10月下旬の頃のことだった。

丁度お昼頃だったと思う。いつもの警固公園近くの歩道で待っていると、黄色の所々さびついた
ワーゲンが近付いてきた。私の横に止まった。運転席に、彼の笑顔があった。「車も持っていた
の?」と尋ねると、「友達のを借りてきた。まだ、オートバイはちょっと恐いんだ」と、伏し目がちにこ
たえた。助手席に乗り込み「どこの海へ連れていってくれるの?」と尋ねた。志賀島か糸島半島あ
たりかなと勝手に考えていた。
彼は、自分がこどもの頃に、一度だけ祖父に連れられて行ったことのある熊本県の天草に行く
と言った。高速道路を使っても4時間程かかるかもと言う。太宰府インターからのった九州道は、
後続の車に次々に抜かれながら松橋というインターで降りた。不知火というあまり青くはない海の
海岸線を走った。彼は、いつもと違いあまり喋ろうとしなかった。
やがて、一つの大きな橋を渡った。海面は、はるか下に見えていた。そのまましばらく行くと、続
けていくつもの橋を通る。周囲には、小さな緑色の島が散在している。これが、私が初めて通る天
草五橋になった。まだ、ここから私に見せたい海までは、1時間以上かかるという。道路は海岸線
を走っていたが、そこからはまだ水平線は見えなかった。
川かなと思うような海峡にかかる大きな橋を渡った。天草瀬戸大橋と記された波模様に造られ
た石板が見えた。海岸線を離れ、山道へと入って行った。
しばらく山の中を走っていた。日は次第に傾き、行く手の道路の空は、やがてオレンジ色へと変
わっていった。突然、温泉街が開けた。狭い道に、古びた旅館やスナックの看板が並んでいた。そ
の温泉街の細い道を通り過ぎると、水平線だけが広がる海岸に出た。海岸線を走る国道を左へ
曲がった。小さなトンネルを抜けすぐの場所だった。午後4時頃だったろう。そこは、高台の岬だっ
た。岬の突端には、岬よりも少し低い岩山があり、その頂上には、トンビの巣があるのか、盛んに
トンビがそこから飛び立ったり舞い降りたりしていた。空にも、数羽のトンビが舞っていた。
岬の周囲に張りめぐらされた鉄柵にもたれて、智則と並んで、海を眺めた。周りに人影はなかっ
た。私達の視界を遮ぎるものは、海と空以外にはなかった。
天空の藍色の空は、海に近付くにつれ、水色から橙色へと変わっていった。太陽は、まっすぐに
水平線へゆっくりと落ちて行く。その動きには、何の迷いもなかった。潮騒の音と「ピーヒョロロ」の
トビの鳴き声だけが聞こえていた。

太陽が、水平線に触れる時を待った。その瞬間に、これまで引きずってきた重い荷物を捨てる
決心をした。
さっきからの私のその気配を察していたのか、智則は私のすぐ横で黙っていた。素知らぬ顔で、
タバコをすっていた。

陽が落ちてゆく。水平線に触れたかと思うと、太陽は、海に溶けていった。

ふと智則の視線を感じて彼を見た。ニッコリ笑うので、私もつられて笑顔になったのかもしれな
い。突然、智則が、「これからは、いつも俺と一緒に居てくれないかな」と、かすれた声でささやくよ
うに言った。同時に、右のズボンのポケットから、小さな四角い箱を取り出した。中に何が入ってい
るのかがわかった。

首を横に振った。彼はオートバイ好きの22歳のまだ少年のような男性で、私は、さんざん傷つ
いて心に病を抱えた4歳も年上の女だ。思わず、自分が、海がみたいと言った訳を話しだした。彼
は、私の話をしばらく黙って聴いていた。私の方は、涙をあふれさせながら、何もかもしゃべってし
まっていた。
智則は「もういいよ。全部知ってる。もう、忘れてしまえよ」と突然ぼそっと言った。その、あまりに
もぶっきらぼうな言い方が可愛くて泣き顔のまま笑ってしまった。彼は、黙ったまま、私の手を引き
抱き寄せた。そのまましばらく、抱き合ったまま立っていた。智則からは暖かな日向の匂いがし
た。鼻を啜りながら泣く私の背を優しく撫でてくれていた。

もう、夜の闇が降りていた。

智則は、右の空を指さした。「あそこに北斗七星があるのは判る?そのひしゃくの先の二つの星
の間隔を5倍くらいに延ばした辺りに一つだけ、そう明るくない星があるだろ。あれが、北極星。ポ
ラリスともいうんだ。俺は、あの星が昔から好きなんだ。いつの季節でも、どの場所からでも、そう
やって薄暗く光っている星をさがせばそれが北極星で、それが北の方角だよ。祖父ちゃんが教え
てくれた。どの時間でも、どの場所から見てもそこにあって、周りに関係なくぶれることがないん
だって。」

智則の指さす右の空を見上げると、確かに周囲にあまり星の見えないあたりに、一つだけ、薄
暗く輝く星がある。あれが、北極星なのか。昔から、夜の道に迷った人々に進むべき方向を教えて
くれた星だとか。
「俺は、あの星のように、いろんなことには、ぶれないで生きて行きたいと思ってるんだ。病院に
入院していた時、先のこと、宙ぶらりんな自分のこと、親に迷惑ばかりかけてることなんかを考え
ると俺もつらかった。世の中の全てから見放されている様な気がしてた。そんな時に俺に微笑みな
がらやさしくしてくれた翔子のこと、俺にとっての天使にみえた。でもその頃の翔子の頼りなさそう
な淋しい笑顔をみて、逆に俺が守ってやりたいと思ったんだ。」などと、カッコつけて喋っていた智
則の横顔を思い出す。
天草からは、翌日に帰った。泊った素泊まりの旅館で、私達は男と女になった。昨日と同じ道で
帰ったはずなのに、太陽の日差しは柔らかく、暖かかった。

次の週、再び彼に呼び出された。今度は、オートバイだった。ヘルメットを渡され彼の後ろに乗
せられた。彼の、細いが筋肉質の胴に両腕をまきつけた。
北九州方面へと向かう3号線を途中から左へ曲がった。両側を美しい砂浜に挟まれた細くて長
い橋のような道を通った。海の中道というらしい。志賀島と書いてある食堂の看板が見えた。
島沿いの海岸線を時計回りに行くと、しばらくして右に、国民休暇村のホテルがあり、その駐車
場で降ろされた。道路を海側へと渡ると、そこは、美しい砂浜だった。玄界灘を渡ってくる波が、打
ち寄せてくる。潮騒の音が優しかった。向こう側には、三角形の島も見えた。智則が指差して玄界
島だと教えてくれた。「この前の続きね。」と云いながら、智則は私にほほえんだ。
今度は、ズボンの左ポケットだった。その小さなリボンが結ばれた箱を私は受け取った。

あれから30年が経った。

智則は、福岡市西区の姪浜にあった倉庫を借りて中古バイクの買取り、整備、販売を始めた。
持ち前の明るさと誠実さからか、バイク仲間の友人達がいつも店に集まり、毎日の様に糸島半島
方面へのツーリングに出発していく。夜はほとんど徹夜の様に一生懸命に勉強していた。いろん
な資格を取っていた。商売にも向いていたのか、そこからは、トントン拍子で事業は拡大した。バイ
クのブームも後押ししたのか、最初の5年で、福岡市内の店は5店舗に増えた。中古車の買取、整
備、販売も始まった。事業が軌道に乗りだしてからは、寝る間も惜しんで没頭していた。バイク好き
の仲間達を次々に採用しては一緒に事業を練り込んでいった。ネットを盛んに利用することでその
販路は爆発的に拡大していった。
その15年後、本店を東京・六本木のビルに移した頃には、会社の名前も「トモノリオート」から
「ポラリスモーターズ」へと変更されていた。私と智則の住まいも、最初の、姪浜のアパートを振り
出しに、大濠公園横のマンションへ、そこからは、東京・南青山のタワーマンションへと移った。福
岡での店舗が増えた頃、一人娘が生まれた。名を菜津奈という。智則が名付けた。
東京の私大に進学した菜津奈は、ワンゲル部に入った。同じ部にいた、山岳カメラマン志望の
一つ年下の彼と、結婚することが決まったのは、丁度一年前、智則の病気が見つかったのと同じ
頃だった。

東京ミッドタウンにあるホテルのボールルームでの菜津奈の披露宴に車イスで何とか出席でき
た2週間後、智則は病院のベッドで息を引き取った。

その数日前、まだ意識の残る日のことだった。その日は、朝からいつものような痛みや息苦しさ
は訴えなかった。朝、病室に入りソファーに坐っている私の名前を智則が呼んだ。智則は、私を
ベッドで添い寝させた。
「俺は、もう長くはもたないことがわかった。先に逝ってしまい、翔子を一人ぼっちにさせてしま
い、ごめん。でも、寂しくなったり、何かに迷ったりした時には、夜空を見上げて欲しい。二人で初
めて泊まった、あの熊本の天草の夜に教えた北極星を探して欲しい。翔子が、どこにいても、どん
な季節や時間だったとしても、星の瞬く夜空であれば、必ず俺はそこにいる。あの星を見たら、俺
がそこにいると思ってくれ。今まで、俺についてきてくれて、感謝している。一つだけ、残念なことが
ある。歳をとって、おばあさんになった翔子の顔が見れなかったということ。できたら、今から30年
後くらいに自分のお気に入りの写真を撮って、俺の遺影の片隅に、一緒に入れてくれないかな?」
と一気に話した。話したあと、少し、息苦しそうに、肩で息をしていた。

その翌日から、智則は、意識を失ったままだった。3日後、菜津奈と私に、両の手を握られたま
ま、智則は、旅立って行った。40歳代くらいの主治医は、私達の姿を観て、涙を流しながら死亡宣
告をしてくれた。

いちばん小さなスタイルのお葬式を選んだ。斎場も南青山のいちばん小さな会場を選んだ。そ
れが智則の意思でもあったからだ。会社の幹部社員や取引先の方たちと思われる人々が外の道
路まで列をなして並んでくれた。

1週間後、私は、智則のお骨とともに、羽田空港へ向かった。お骨は、二つに分けた。1つは、智
則の実家である久留米のお寺の裏の、お墓に入れるつもりだ。でも、もう一つは、いつも私の傍に
置いておきたかった。二つに裂かれたままでは、智則も、不安定のままだったとしても。
20年前に購入し、3人で5〜6年くらい住んだ、大濠公園近くのマンションのドアを久し振りに開
けた。なつかしい日向の匂いがした。智則の匂いだ。

明日は、20年くらい前に運航を開始した、天草エアラインの飛行機で、智則と一緒に天草へと
行く予定だ。大濠の池を見下ろした。菜津奈が生まれたばかりで、三人で忙しく暮らしていた頃の
ままの景色が広がっていた。

翌朝8時に、福岡空港に着いた。福岡の地下鉄は、あいかわらずとても便利だ。
空港1階の天草エアラインのカウンターで搭乗手続きをした。南の保安検査場では、ボストン
バッグに入れたお骨のことが少々不安だったが、特に何のチェックも受けなかった。バスに乗り、
飛行機の傍へと連れていかれた。バスを降りると、そこにはイルカの親子がイラストとして描いて
ある可愛いプロペラ機が駐機していた。タラップの階段を数段登り、機内に入った。10-Dの座席
は、入ってすぐの右の窓際だった。
急加速を感じたあと、飛行機は地上を離れた。福岡と佐賀を分ける山脈が見えた。その後、筑
後平野が続く。大きな川が二股に別れて海に注いでいる。智則の生まれ育った所だ。すぐに有明
の海が広がってきた。右横に大きな山塊が見える。
この右横に見える雲仙岳が噴火し、大火砕流で大きな被害が出たのは、ちょうど30年前、智則
が、右脚の複雑骨折で入院してきた頃のことだったと思う。智則のベッド横のTVで、ニュースが
度々流れていたことを覚えている。30年経った今では、雲仙岳からは、噴煙も上がらず、緑の
木々もはえないままで、溶岩のあとなのかこげ茶色の山肌を晒していた。
やがて、天草空港に着陸した。空港を出ると、電話で予約していたタクシーで、天草の教会を
廻ったあと、あの智則と初めて一夜をともにした下田温泉の旅館へと行くつもりだ。
天草は、哀しい歴史のある隠れキリシタンの島だ。私の生まれ育った大分県臼杵市にも、その
昔、大友宗麟が、キリシタン大名だったためか、キリシタンの史跡が数多くあった。通った幼稚園
には教会の礼拝堂もあった。

タクシーの運転手から、「どちらから、来られましたか?」と聞かれた。東京から来たのだが、福
岡のマンションに寄りもしたので、9月いっぱいで緊急事態宣言が解除になったとはいえコロナ禍
も続いていることでもあり、ちょっとためらったあと「福岡からです。」と答えた。
天草・本渡のキリシタン館を手始めに崎津、大江の教会を訪ねることにした。崎津では、明治の
頃の、天草の女性の悲しい歴史も知った。からゆきさんと呼ばれていたのだ。
大江の教会を後にしたあとは、タクシーは海沿いを北へ向かった。西平と呼ばれる所は、道路
も狭く、断崖絶壁にへばりつくような細い道だった。左手の東シナ海の景色は雄大で、空と海しか
見えなかった。椿公園という名前の公園にも案内された。大ヶ瀬や小ヶ瀬という名前の付いた岩
礁が、遠いのか近いのか、不思議な距離感で見える。
やがて、タクシーは、妙見ヶ浦という海岸へ降りた。小石のしきつめられた海岸だった。ダイビン
グを楽しむ人々があいさつをしてくれる。
その後、再びタクシーに乗り、下田温泉へと向かった。宿泊を予約したのは、30年前に、智則と
初めての夜を過ごしたあの旅館だ。

建物の外観の造りは、あの頃のままだったが、30年という月日をだますことはできず、色褪せて
みえた。私も同じく色褪せているはずだ。私と同年代くらいの女将さんがでてきた。30年前は、前
の女将の息子嫁としてここに居られたという。智則との初めての夜を過ごしたあの時、この女将さ
んはここに一緒に居たのだ。まるで旧知の知り合いにあったような安心した気分におそわれた。

夕食のあと、旅館の外階段を登り屋上に出た。北斗七星を探し、そのひしゃくの先の二つの星
の延長線上で、その周囲に星のない、やや光の薄い星を探した。ポラリスは、30年前と同じくそこ
にあった。北極星から地球までの距離は430光年。今、私が見ているこの光は、私と智則が一緒
に生きてきた時間を全て包み込んでいるのだと思うと、優しく懐しい光に見えた。屋上の床に横に
なった。

ポラリスの反対側の南側の山側からオリオン座が上がってきた。オリオン座の左肩の方から、
仕掛け花火の様に時々流れ星が落ちてくる。流星群だ。

臼杵のカトリック幼稚園へ通う頃、保母のシスターから、流れ星を見たら、その流れ星が消える
前に「Rest in Peace」と3回となえると、自分の一番大切だった人の魂は、無事に天国へ迎えられ
ると教えられていた。今夜はオリオン座大流星群の極大日であることを知っていた。

私は、今日そのためにここに来たのだ。52歳の若さで逝ったのだ。智則は、まだまだ心残りのこ
とがたくさんあったに違いない。30年の月日を経て全国展開となった事業のこと。一人娘の菜津
奈のこと。孫も抱きたかったに違いない。そして、やはり私のこと。

智則のことだ。いまもすぐ傍にいて、優しく私を守ってくれていることだろう。でも、私は大丈夫。
安心して、天国でゆっくり休んで欲しいと、流れ星に願いをかけた。「Rest in Peace 」「Rest in
Peace 」「Rest in Peace」と流れ星が落ちてくる度に何度も何度も何十回も唱え続けた。

遠くで、女将さんかなと思える女性の声が、私の名を呼ぶ声が聞こえた。

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