十万山の四季

私と十万山の縁は遡ると、ほぼ私の人生と重なります。保育園も、登山口近くにありました。小学校の遠足でも、十万山によく行きました。20年ほど前、縁あって十万山の山頂に不動明王像を建立奉納しました。大寒の頃、雪の降りしきる中、不動明王像の前の護摩壇にて、半日、護摩を焚いたこともあります。その後、繁忙な日常診療の中で、忙しいの言葉通り、心を失ってしまったのか、次第に十万山から足が遠ざかるようになっていました。むしろ避けるようになっていました。十万山から遠ざかるにつれ、生活もだんだん乱れ、アルコールの量も増え、体重も80キログラム台半ばへと増加。HbA1cも徐々に上昇していきました。

 還暦まで,あと1年余りとなった昨年12月のある日のことです。何がきっかけかは覚えていません。30代半ばの頃、盛んに楽しんでいたマウンテンバイクでの登山を、また、してみたくなったのです。最も遠くでは、苓北町の医師住宅から、フェリー経由で、雲仙普賢岳ロープウェー発着口まで、行ったことがあります。その頃、夏場はほぼ毎日、志岐山へと通いました。当時使っていたマウンテンバイクは、すでに廃車同然。再び乗れるだろうかと半信半疑のまま、中古のマウンテンバイクを購入しました。母の住む大矢崎の家を出発。恐る恐る、本渡のアーケード街を通り、裁判所前の登山口へと至ります。そこから十万山山頂までは約3キロ。標高差約200メートル。下りのない上りの一本道です。息が上がります。休憩に休憩を重ね、7回の休憩の後、ようやく山頂の不動明王像前に到着しました。その時の所要時間は、約2時間でした。スマホで自撮りします。降りる道の爽快なこと。十万山には59歳となった今でも、マウンテンバイクで登れることを確認しました。

同じ年の12月中旬のことです。苓北医師会病院の忘年会が、本渡の居酒屋であり、医師会理事として参加しました。天草地域医療センター院長原田先生の差し向かいに座りました。原田先生は、ロードバイクで、かなりの強者であることを風の噂で聞いていました。自転車の話になりました。つい1週間前に、十万山へと登ったことを話すと、「あんた、そんな太った体で、よく登りきったなぁ」と言われました。その言葉に発奮しました。なかなか、他人には簡単に言えないことを、ズバリ指摘してくださったのです。以来、十万山へのマウンテンバイク登山が、日々の私の最大の使命となりました。時間のある限り、十万山へと通います。約1年間通ううち、今は、大家崎の家から1回の休憩もなく山頂まで約1時間で往復できます。体重は10kg減、HbA1cは5%台へ急速に低下。腹囲も減り、それまでのズボンが、すべて着用できなくなりました。(今のところ捨てずに取ってあります)

体力に余裕ができると、周りの景色が見え出します。最初の頃、1月は、雪の華の中を上ったこともあります。春の桜、それが散り落ちた後はツツジ、サツキ。初夏には、東京本渡会の人々が植えてくださった紫陽花に心打たれます。ひまわり、朝顔、夏の終わる頃からは、深紅の鶏頭、コスモス、曼珠沙華。それが終わると紅葉が始まります。1年が経ったのです。それまで全く興味がなかったものを、意識するようになっていきました。山頂に至ると、二昔前に自分で建立した不動明王像、虚空蔵菩薩像、十一面観音像が待っていてくれます。大きな声で、般若心経と各菩薩の御真言を唱えます。あの1年前の原田先生の言葉は、私にとって不動明王からの言葉だったのではと思えるのです。私は、来年還暦を迎えます。一昔前であれば、その後の人生は余生と言われたのでしょう。しかし今は、人生100年の時代。還暦はまだ6割の旅の途中です。少しペースを落とし、まわりの景色を楽しみながら、歩いていければと思います。

 ちなみに、妻の診療所の名前を、十万山クリニックと名付けたのは、私ではなく妻自身です。

掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2019年1月号
発行ナンバー137
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