人間万事塞翁が馬 Written by Eiichi Nakamura

「0日目の蝉」

天草医報

夜に冷たい雨の降った昨年7月初めの朝のこと。玄関を出ると,外塀の内側にいくつか蝉の抜け殻が付いていました。しかし,その中に一つだけ,まだ薄緑色のままの幼虫が,背中の殻の隙間からその姿をのぞかせていました。早朝に土から這い出したため,まだ羽化の途中にあるのだろうと思われました。小学生のころ,木の幹を這い上がる蝉の幼虫を虫かごに捕まえては,割れた背中から這いでた幼虫の白くかたまった羽が,だんだん成虫のそれに変わっていく様子をつくづくと眺めていたことを思い出しました。
午前の外来診療を終え,自宅へ戻る玄関先でふと見ると,例の幼虫はいまだ,そのままの姿にとどまっています。何らかの不具合のために,羽化に時間がかかっているのだろうと考えました。ところが,その日の夕方になっても,まったく変化はみられません。前日の夜の冷たい雨に打たれて,体温がうまく調節できず,羽化できなかったのでしょう。6~7年もの間,土の中で羽化の時を待ち望んでいたはずなのに。その後,幼虫の亡骸は数日間そのままの姿でそこにありました。
それから少し経ったある日の外来のこと。母親に連れられて,高校に上がったばかりの男の子が外来を受診しました。毎日朝になると頭痛と倦怠感が強く,布団から起きられず,学校に行けない,という訴えでした。でも午後になると,自然に回復してくるらしいのです。高校の担任から,病院受診を勧められたとのことでした。
 理学的所見には異常なく,末梢血液やCRPなどにも異常を認めません。しばらく話を聞いているうちに,どうも夜遅くまでスマホに没頭しているようだということが判ってきました。睡眠障害が原因なのではと思い,母親にそう告げました。母親は「私もそうなのではと考えていました。でも,何度注意しても,逆ギレしたり,興奮したり,かと思えば,急にふさぎ込んだりするのです。自分が過保護で育て方を間違ったのではと自分を責めてしまい,それをやめさせることができないのです」とのこと。私は,男の子に,夜のスマホをやめるように言いましたが,「それは絶対無理」と言い張ります。私はどうして良いものか判らないまま,その診療を終了しました。その診療の後も,何かが胸につかえて離れません。しばらくして,その何かが次第に,あの冷たい雨の翌日,羽化できなかった蝉の幼虫の姿と重なっていくのを感じました。
 パソコンやスマホが,思春期を迎えるこどもたちにとって一概に有害であるとは思いません。我々の青春時代とは異なり,むしろコンピューターなどの先進機器に幼い頃から馴染むことのほうが,これからの社会を生き抜くためには有利なこともある筈です。しかしどうしても,布団にくるまり,スマホを深夜遅くまでいじる姿が,あの初夏の夜,冷たい雨に打たれ続けたであろう蝉の幼虫と重なってしまうのです。
そんなことを考えながら,いまや日課となっている昼休み時間の通詞島ウォーキングをしていた日のことです。真っ青な海に浮かぶ島の周囲の細い道路を,ノルディックスタイルで歩いていると,一匹の大きなカマキリが地面にへばりついています。車が通ると轢かれてしまうなと思い,持っていたスティックで路肩の草むらへとよけました。すると直後に,軽トラックが通り過ぎ,そのカマキリは難を逃れることができました。あの冷たい雨の降り注いだ羽化途中の蝉にも,もしその後の展開を予見できる知恵をもつ誰かが,傘をさしかけることができたなら,無事に羽化を完了することができたのでは,と思い至りました。
 ところが,先ほどの男の子に今後起こると思われる結果を回避する具体的な知恵は,いくら考えても一向に頭に浮かびません。家族や,少年空手道の指導者,介護老人施設の役員の方々などと話をしてみましたが,やはり,皆さんにもいいアイデアは浮かばないようです。なかには,その蝉もその高校生も,一種の淘汰を受けているのではという,やや冷酷と思えるような意見もありました。それでも,医師として介入できる余地はないのでしょうか。どうしても諦めがつきません。
 日本ではネット・スマホ依存症に対する対策が遅れていると聞きました。そこで,ほかの国ではどうなっているか調べてみました。ネット依存症は社会生活に対する大いなる脅威と認識され,米国,韓国,中国では国家的な対策を講じているようです。たとえば,お隣の韓国では,16才未満の深夜のオンラインゲームを禁止したうえ,「Kスケール」というネット依存度を簡単に測るチェック方法を用いて,ネット依存状態にあると判断された場合,小中高校生のために国費で11泊12日の断ネットキャンプを開催しているとのことです。
ここ日本では,ネット・スマホ依存症の中高生が10~20年後どうなっていくのか,それが社会にどういう影響をもたらすのか,現在進行形で壮大な実験が行われているのではないか,と懸念します。
また最近精神科領域で,抗うつ剤の適用拡大が図られつつある社交不安症(SAD)又は社会不安障害という新しい疾患概念があるようです。ネット・スマホ依存症は, リアルでのコミュニケーションの発達を障害する可能性があり, 社会不安障害の原因の一つになり得るのではと危惧しています。
 スマホ・ネット依存症の解消法をネットで調べてみました。(実にネットは便利です)
その方法として紹介されていたものは,予備バッテリーを持ち歩かない,中毒アプリをフォルダーに隔離する,スマホはカバンにいれるとか,「私はスマホ依存症」と唱える,といった類の,依存症に陥った人が実践するはずがないようなものしかありません。また,子供がスマホ依存症になったら,無理に取り上げるようなことはせず,専門のカウンセリング治療を受けるようにしましょうとあり,これも,やはり実践にはほど遠いものと思います。
 ネット・スマホ依存症に陥り,不登校・引きこもりへの階段を降り始めた子供たちが最初に連れられ訪れるのは私たち小児科・内科の一般開業医だと思われます。数分きざみの多忙な外来診療の合間ではありますが,母親や本人の訴えに真摯に耳を傾け,そこに何が起きているのか,を洞察する粘り強さを持たねばならないと思います。そして,一人一人の個別の状況に見合った傘をさしかける知恵を自分なりに育てていかねばならないと思っているところです。