緩和ケアセミナーに参加して

10月下旬、妻のクリニックは天草市の日曜小児科当番医だった。インフルエンザ流行中でもあり妻単独では苦戦を強いられるかもと考え、応援が必要かと自宅で待機していた。早朝のうちは大丈夫と考え、いつものロードバイクで本渡~二江を往復した後、診療状況を伺おうと考えた。9時過ぎに二江の自宅に戻り、コーヒーを飲みながら天草広報を読んでいると、午前10時から天草市民センターホールで「天草の皆さんに知ってもらいたい、もっと身近に緩和ケア」というテーマで県民公開講座が開かれることに気付いた。腕時計を見るとちょうど10時だった。今から車で真っすぐに向かえば、10時半には天草市民センターに到着するはずだ。妻のクリニックに電話して状況を尋ねると、多いが何とか回っている様子だった。

市民センターに到着し、メインホールのドアを開き階段を登り、一番上側の座席にすわった。ちょうど、「病気を抱えてもあなたらしく過ごすために」との題名の講演が行われていた。牛深のクリニックで副院長をされ、天草中央総合病院で緩和ケア科の外来も担当しておられる新進気鋭の女性医師M先生だ。講演内容をまとめられた冊子の表紙には、御本人の略歴も記載されていた。医師となられたあと、東北大学 文学研究科 臨床宗教教養講座というところで勉強もされていた。「臨床宗教って何だろう。哲学科ではないんだな。どんなことを勉強されたんだろう」と思いながら講演を聴いていると、死の病を抱えた人間が抱える心のダメージについての話をされていた。心のダメージにも、「精神」のダメージというものと「魂」のダメージというものの二つがあるらしい。違和感を覚えた。

 言うまでもなく、人間とは精神と肉体が合体したものである。その精神も、脳という肉体の一部から造り出されているはずだ。脳という肉体がなくなれば、精神も同時に失われるはずだ。ところがM先生は、精神と魂を別個の存在として話しておられる様子だった。どういう意味か、どういう論理なのか理解できないまま、M先生の講演は終わった。ポイントの理解ができなかったため、質問の際、手を挙げることはしなかった。悶々としたまま、その後の講演を拝聴した。

 12時半になり、公開セミナーは終了した。本渡の自宅に戻り妻に当番医での診療状況を尋ねると、午前中で50人ほどの外来数だったと告げられた。であれば、午後外来は多くても30名程だろうと考え、午後外来も妻に任せ、昼食のあと、いったん車で二江へ戻り、ロードバイクで本渡の自宅へ帰ることにした。本渡に到着後は近くの温泉へお邪魔したのはご想像どおりである。帰宅しても、精神のダメージ、魂のダメージと、分けて語られていたM先生の講演が気になっていた。

翌朝となった。たしかM先生の天草中央総合病院での緩和ケア外来は今日のはずだ。午前9時過ぎのこの時間ならまだ外来の始まる前かもと思い、この疑問を解消させるべく電話をしてみた。案の定、まだ診療中ではなかったらしく、すぐに電話に出て下さった。
私     「昨日の講演内容について、質問させてください。」
M先生  「いいですよ。どんなことでしょうか。」
私     「昨日の話の中で、先生は精神と魂を分けて話されていました。どんなふうに違うのでしょうか?」
M先生  「肉体がなくなると精神も一緒になくなりますが、魂は残ります。」
衝撃を受けた。

私が今、NHKオンラインセミナーで、3回にわたって勉強中の「チベット死者の書 ― 生と死の哲学」(早稲田大学教授、石濱裕美子氏講演)に出てくる話と一致するからだ。人間は肉体のなくなったあと、その魂は肉体を離れ、時間・空間の存在しない中有という場へ旅をするというものだ。
その日の夜、妻と夕食をしながらその話をした。すると妻は、「ディズニーの映画で、それと似たような話があるよ。~ソウルフルワールド~という題名の」
早速、夕食後、テレビで「DiSNEy+」へ行き検索すると、すぐに出てきた。ジャズピアニストになろうとしていた中学校の臨時音楽教師が、晴れてプロのジャズピアニストとしてデビューすることになったその日、突然マンホールに落ちて脳死状態となり、その魂が中有を彷徨うのだ。プロのジャズピアニストになる夢をどうしても諦めきれない主人公は、眩い光の方へ連れて行かれそうになっては、必死になってその昇りのエスカレーターから逃げ、青い地球へ戻るため、中有の地面に空いた穴から何度も飛び降りては、地球へ戻ろうとするのだが、その度に中有へ引き戻される。しかし、さまざまなトラブルを乗り越えたあと、最期には自分の死を受け入れることになったところで、中有にいたカウンセラー・ジェリーにより、なんとか地球上の自分の肉体へ戻されることになる。しかし、このストーリーでは、主人公の肉体は脳死状態であり、完全に肉体が滅していたわけではなかった。

 肉体と精神、魂の三者の関係について、自分なりに考えてみた。 私は、ロードバイクという自転車に乗り、旅をする。その時の自転車が肉体で、それを精神という脚力がペダルを回す。その脚力を、支配している私そのものを魂と考えてみてはどうか。何十年も経過すれば、自転車は老化、劣化してくる。そこで、旧い自転車には別れを告げ、新しい自転車を手に入れ、乗り変えれば更に、魂の旅は続いていくはずだ。
その後も、肉体・精神・魂の三者の関係性、相関性、形而上学的な普遍性について、散々思いを巡らせた。肉体・精神・魂の三者の関係を、具体的な風景として表現することは、極めてむずかしい。そして現在も模索を続けている。

ひとつ思いついたことがある。身体は、太陽の光を浴びると影ができる。大地に映るその影を精神と考える。肉体とその影は常に同時に存在している。長い年月が経過して肉体が失われると、同時に影も消える。しかし、その影のあった場所は、日焼けの具合が、微妙にうすいはずだ。影という精神が濃ければ濃いほど、日焼けもうすくなり、影の映っていた輪郭も明瞭となっているはずだ。輪郭が、自分が立っていた大地のようなところに残っているのだ。その残った輪郭が、魂というもののような気がしている。

さらに考え続けてみたいと思っている。

掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2024年1月号
発行ナンバー152
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