幸せのカタチIII 「Night Doll,Night Flight 」

 旅館の玄関脇から、壁沿いに斜めに立ち上がる薄いブルーに塗られた鋼鉄製の外階段を登り、屋上へと出た。屋上は30m四方くらいの正方形で、緑色シートの張られたフロアーだった。周りを見渡した。九州の西の果ての温泉街は、周囲を鮮やかな深い緑の山々に囲まれていた。
朝、福岡空港を出発し、昼過ぎにこの旅館に着いた。10月下旬の夕方だった。太陽は、 唯一、山に隠されていない西側の谷間に少しだけ覗いている水平線へと近づいていた。快 晴の空は、頭上の藍色から、水平線へ近づくにつれ、その色を輝くような橙色へと変えて いた。持っていたスマホで、Flightrader24のアプリを開いた。地図上でANA1210便を表す 飛行機のマークが、天草下島の西海岸に沿うようにゆっくりと北上している。もう少しで 私の視界にも現れてくるはずだ。やがて、海側を見つめる私の左上方からゴゥーとかすか な音がした。すると、その音の前立ちを勤めるかのように、飛行機が私のはるか上空を北 側へと飛んでいく。見えなくなるまで見送った。
 やはり、ここのほぼ真上を通るのだ。Flightrader24でもう一度確認した。その飛行機 は、Boeing737-881、高度32000ft(約9600m)、速度は450kts(時速830km)だった。この屋上から、那覇→福岡行きの飛行航路がはっきりと見えることを確認し、さっき登った外階段を下りた。
4年前、私はANAのCAの研修生だった。羽田空港近くの京急空港線沿いにあった賃貸ア パートで生活をしていた。その頃の私には、大学時代から付き合っていた彼がいた。大学を卒業し、大手都市銀行 に入職した彼は、半年間ほど丸の内にある本店で研修をしたあと、福岡支店へ転勤となっ た。たちまち遠恋となった。月に1~2回新幹線でお互いに行き来したり、途中の大阪や 京都で落ち合ったりした。博多で一番好きだったのは、地下鉄桜坂駅のすぐ近くのイタリ アンビストロだった。もちろん、西中洲にあったもつ鍋屋さんもお気に入りの店だった。 CAの研修から部屋に帰り着くと、やっと彼からのLINEを開ける毎日だった。あわててLINEを返すが、翌朝まで既読にならなくなったのは、秋の紅葉が散りはじめた シーズンの頃だった。次の予定を立てる電話をしても、次第に彼の声が、乾いた声になっ ていくのに気付いていた。12月に入り、クリスマスイブの週末に逢うため東京駅で、博多 への新幹線のチケットを買い、自室へと帰る途中、彼からLINEが来た。
「もう、別れよう。」
その予感はしていたのかもしれない。少しばかりのショックはあった。乗っていた山手線を、途中の新橋駅で降りた。改札口を出て、どこをどう歩いたか覚えていない。たぶん、夕日に向かって歩いたのだ。博多方面へと沈みゆく夕日を追いながら
1時間くらい歩いた。
 一つの交差点に辿り着いた。そこから、歩いてきた道路を振り返ると、道路の真ん中 に、赤くイルミネーションされた東京タワーが、そびえ立っていた。巨大なクリスマスツ リーに見えた。疲れを覚え、近くのカフェに入った。2階建てのガラス張りのカフェだっ た。「Verve」との看板が見えた。温かいカプチーノを飲んでいるうちに、だんだん気持 ちも落ち着いた。私もこれまでの関係から自由になりたかったのかもしれない。とても自由な気分で、リラックスしている自分に気付いた。以来、六本木三丁目にあるそのカフェを好きになった。私の人生の節目になる「場」をもたらしてくれそうな気がしたからだ。
 CA研修中、時々、息抜きにそのカフェに通い、自由な気分に浸った。いつも一人きりで 行った。メニューもほとんど覚えてしまった。その半年後くらい、研修も終わりCAとして働き始めたばかりの5月中旬の日曜日だっ た。CA研修時代の友人の披露宴二次会の六本木のバーで、智也は、盛んに面白いことを言っては、人を笑わせていた。大手都銀に就職した前の彼とは、全く違う種類の男性に見えた。俳優の鈴木亮平にちょっと似ていた。帰りがけに、いきなり声をかけられた。「LINE 交換してもらえませんか?」と聞かれたのだ。新郎の友人であるらしい。気安い気持ちで、自分のスマホのLINEのQRコードを開けた。彼が私のQRコードをチェックすると、しば らくして「初めまして。ANA新人パイロットの西田智也といいます。」とLINEが来た。 「初めまして、新人CAの裕里でーす」と応えた。彼はにっこりと笑顔を向けたまま、「またねー♪連絡させてもらいますねー」と手を振ってくれた。
 その一週間後くらいだった。智也から、いきなりLINEがきた。「この週末、時間があれ ば、会ってもらえませんか?」とあった。その週末の土曜日は、たまたま休みになってい た。場所を相談された。いつもの六本木のカフェを、午後3時で指定した。
 5月の爽やかな陽光の中、3時ちょっと前に、カフェ「Verve」に着いた時には、西田は既に、私の一番好きな2Fのコーナー席を占領して待っていた。私に向かって笑いながら 右手を挙げた。楽しい会話があった。
 大阪出身の彼は、5年ほど前に、日本航空大学校を卒業していた。私より3歳年上だった。航空大学校では多忙だったらしい。新千歳キャンパス、宮崎キャンパス、最後は仙台だったとのこと。現在は、ANAで副操縦士として、多忙な毎日を 送っている。その頃は、月に一回は、国際線では成田―ロサンゼルス、成田―上海、成田―シカゴの往復があり、国内線では、羽田―新千歳、羽田―福岡、羽田―沖縄、沖縄―福岡の各航路が、2回ずつ入っているようなスケジュールだった。
 私の方はといえば、月に一度の成田―ニューヨーク、羽田―台北、羽田―上海、成田―クアラルンプールの他、羽田―新千歳が2回、羽田―福岡、福岡―沖縄が、1回ずつという感じのスケジュールだった。一緒の便に乗り合わせる機会は、殆どなかった。会えるのは、たまたま休みの一致した日だけだ。
 いつもの六本木三丁目交差点のカフェで待ち合わせして、道向こうの都市ホテルに泊った。周辺のレストランもだんだんと馴染みのお店となっていった。そうやって、1年が過ぎた頃のことだったろう。もう、遠いあこがれだと思っていた自分の未来の姿も少しずつ透けて見えていた。指輪も貰っていた。幸せはすぐに手の届く近い処にあった。
 学生時代に、一番仲の良かった友だちの綾音に、智也を紹介することになった。綾音は、 銀座近くのIT系証券会社に勤めていた。綾音と一緒に、Verveで彼を待った。20分程、綾音と近況報告をしていたところに、 智也が、息せききって、階段を上がってくるのが見えた。綾音は、あわてて立ち上がり、智也に微笑みながらあいさつをしてくれた。あの時、そこに奇妙な空気が漂っていたのに、確かに気が付いていた。それからしばらくしてのことだった。久しぶりの休みに、自室で寛ぎながら、結婚式でのドレスをどれにしようかと迷っていた時だった。携帯の着信音がふいに鳴った。綾音からだった。
「ごめん、あたし。裕里、あの人と別れてもらえないかな。」といきなり告げられた。しばらくの間、混乱していた。何があったのか、わからなかった。すぐに、LINEで確認することは控えた。智也の顔色を直接見なければならないと思ったからだ。
 次に、智也に会った時、私の知らない処で綾音に会ったのかを尋ねた。「綾音に、二人だけで会わなかった?」とストレートにきいた。彼は黙ったままだった。
 その一週間後の12月中旬に、ANAの部門別の忘年会が、新高輪プリンスホテルで開催された。智也がその忘年会の場に居るのを目の端で確認した。智也は、私を探そうとはしていなかった。むしろ、避けようとするかの様に、私から遠去かっていく。外は冷たい雨が 降っていた。我慢できなくなり、酔ったふりをして智也に近づいた。パーティーはまだ続いていた。彼は私を目の端でとらえたあとも、私から離れていった。外に出た。タクシーは、居なかった。一応傘は持っていた。ホテルの玄関脇の外壁で、立ったまま、雨の降る暗闇を見つめていた。智也はとうとうそこに現れなかった。午前0時を、腕時計で確認したあと、タクシーに乗り、品川方面へ帰った。振り返ると、真っ赤にライトアップされた東京タワーが見えた。美しい宝石のようなネオンのはずなのに、色褪せて見えた。真っ直ぐなはずのタワーが、歪んで見えた。一人きりの部屋には帰りたくなかった。もう一度やり直せることを、心のどこかでまだ信じていた。目に見えない赤い絆でつながっていると、まだ信じていた。二人で行った、あの青い珊瑚礁に囲まれたバリ島の海岸を思い浮かべながら、一人きりの午前1時すぎの部屋に戻った。智也からの連絡は、年が明けてもとうとう来なかった。
 年明けして、しばらくした頃、辞職願を提出した。もう、一緒の会社には居たくなかったの だ。「Verve」の2階のガラス窓越しに、智也と綾音が楽しそうに寄り添いながら、私の大好きな交差点を、道向こうのホテルに消えていった姿を見てしまったから。
 ANAを退職したあと、六本木交差点近くのクラブに勤めることにした。Club「S」は、真ん中に大きなホールを抱える高級クラブだ。面接は2回あった。一度目は履歴書を提出し、日本人マネージャーと楽しい話をした。2回目の面接では、外国人のマネージャーから英語でいろいろ質問された。それぞれに英語で答えた。月に和洋問わず10冊以上の本を読み、その感想文を、英文で書いて提出することを提案され、それを約束した。六本木の Club「S」の時給は、体験入店時給は15000円であるが、私の場合いきなり本契約となり、時給9000円から始まることになった。勤務時間は午後8時から午前1時までの5 時間だ。土日、祝日は休みとなる。髪のセットは、Clubと契約している専属のサロンで受けるように言われた。セットの料金は、歩合給から天引きされるとのことだった。
 クラブのキャストとお店とは、雇用契約ではなく請負契約であり、キャストは基本、個人事業主になる。したがって、健康保険は自分で入ること。クラブで着用する服や靴は、経費とみなされるとのこと。通勤に使うタクシー代も全て経費になるので、領収書は必ずいただいておくようにとのことだった。接待のマナーについても、ママの代理から講習を受けた。クラブをはじめあらゆる飲食店は、験を担ぐ商売だ。乾杯する時には、グラスの底にも片手を添えて、客のより低い位置でグラスを当てる。これは、乾杯の拍子にグラスから飲み物が溢れないようにするためと同時に、自分の位置を下にして、客に真心からお持てなしをする意をこめてだ。水割りを作る時のマドラーは、必ず反時計回りで廻す。時計回りで混ぜると、早く帰れコール になるらしい。客のタバコに火を付ける際には、必ず自分の前で着火して、ライターを持たない方の手で火を囲ったまま、客のほうへ移動させる。客に火傷をさせる危険を回避するとともに、客の情の火が消えないようにするためだ。などなどを教えてくれた。その他の基本的な接客マナーは、CA時代に研修させられたレベルとほぼ同じくらいかな と、思った。同伴やアフターなどのシステムについても、ちゃんと説明された。同伴はポイントになるし、アフターは、次の予約に繋がるのだ。あと一番大事なこととして、この仕事でタブーなことについても、いろんな前例を紹介されながら学ばされた。トラブルや事件につながることも多いみたいだ。
 ドレスコードもあるClubは、芸能界や音楽界、放送界、小説家、梨園の方たちを始め、 実業界、外資系の大手IT企業の外国人役員の方たちが多かった。英語を喋れる私は重宝さ れていたようだ。高級シャンパンの栓が、次から次に抜かれていく。ベルエポックやソウメイ、サロン、クリスタル、ドンペリのプラチナやラベイなど1本で何十万もするシャンパンたちだ。時給は次第に上がり、何人かの太客の指名がもらえるようになった頃は、時間25000円の最高ランクとなっていた。併せて、歩合制のボトルバックもいただけるようになった。 抜かれたシャンパンやワインが多かった月には、500万円を超えていただくこともあっ た。もちろん、それに合わせていろんな経費や出費も多かった。
 Clubに入って、2年くらいたった時だった。智也がANAの上司の男性達と来店してきたのを、目の端にとらえた。ほぼ同時に、私達の視線は絡み合っていた。智也は驚いたような顔をしたまま、いきなり他の客の接客をしていた私の方に近づいてきた。 「ずっと探してた。綾音とは、あれからすぐに別れた。やっと、裕里を見つけた。」と、耳元で秘密の話しをするかのように喋りかけてきた。
 翌日、再び一人で来店した。私を指名し、いきなりドンペリ白を注文した。値段も知らずに注文したのだ。無理をしたのが注文の後、メニュー表を見た時の顔色で分かった。彼は私の源氏名「リリア」を呼ばず、「裕里」と呼んだ。
「あの時の俺はどうかしてたんだ。裕里が居なくなり、連絡もとれなくなって、すぐに 気付いた。誰よりも、何よりも裕里のことを愛してたってことを。俺も裕里がいなくなって苦しんだ。この2年の間、ずっと裕里を探していた。裕里がどこに居るのか、ANAのCA達も誰ひとりとして知らなかった。何とかもう一度、初めからやり直させてくれないか。」
 彼は知らないのだ。綾音から、彼と別れてくれないかと頼まれたあの日から、私に何が起こったのかを。私が、今までにどう変わっていったのかを。私は、すでに「夜の人形」なのだ。夜になれば、私の一番親しい友達は、ドレスとハイヒールであることを彼は知らないのだ。私のマンションは、ドレスとハイヒールと宝石たちで足の踏み場もなくなっていることを彼は知らないのだ。私が夜のネオンライトの下でだけ映える化粧しか知らないことを、彼は知らないのだ。私が疑似恋愛を計画通りにくり返し、出会いと別れを自分の予定通りに積み重ねてきたことを、彼は知らないのだ。何もかもが、彼の知っている私とは違うことを、智也は知らないのだ。
 智也は、自分の休みの前の夜になると、必ず店に現われた。他の客に指名されて自分の テーブルに接客に来ない私を、一人でずっと待ち続けていた。他のキャストが就こうとし ても、頑なに断り続けていた。Clubなのに、一人きりで黙ったまま水割りを飲み続けてい た。黒服のスタッフたちも困惑していた。
 そんなある日のこと、マネージャーから、私に同伴の予約が入ったことを告げられた。お客様本人から直接私への連絡ではない。不思議に思い、その名前を訊いた。マネージャーは、両手を後ろに拡げ頸を傾けながら智也であることを教えてくれた。
 その日私は、2年前に彼に貰ったままのリングを、左手の薬指にはめた。大切にしまっていた、披露宴でお色直しの最後に着るつもりだったエミリオプッチのワンピースを着た。クリスチャンルブタンのヒールをはいた。
 智也は、六本木交差点近くの、フレンチレストランで待っていた。ヴーヴ・ロゼで乾杯をしたあと、彼は赤ワインを注文した。2人が出会った年に因んで、2018年のワインを探してと頼んだのだ。ソムリエが探して持ってきたのは、メドック 4級のシャトー・ベイシュベル。ビスケー湾へと注ぐジロンド河を通る船の帆が、半旗に降 ろされたエチケットが、ラベルになっている。カベルネ・ソーヴィニョンとメルローが主体のボルドーワインだ。まだ年数が足りていないのか、その味は、私と同じ様に尖ってい た。
 智也は、はじめのうちに自分の近況報告を始めた。コロナ禍前後で少しずつ変化した仕事にも慣れてきたこと。成田ーホノルルの運航が復活し、乗客もほぼ満席に近くなってきたこと。コロナ禍が始まった頃には、あまりにも感染対策が厳重で息が詰まりそうだったこと。自分があの時つい浮気心が出たのは、結婚前の男の心のふらつきだったのかもと言い訳した。マリッジブルーだったかもと。コロナ禍で精神的にも追い詰められていたせいもあったかもしれないとも付け加えた。
 私には、智也のことばが、遠い潮騒のように聴こえていた。それは彼にも伝わったかも知れない。私の表情を見て、だんだん、口数が少なくなっていったことに気付いていた。お店へと一緒に戻ったあと、私は化粧室からそのまま帰路に着いた。
 マネージャーには電話で、別の系列店へ移らせて欲しいと頼んだ。マネージャーは、全てを心得ていた。智也には、本日をもってリリアさんは退店しましたと告げたらしい。その日の料金は、ちゃんと同伴料金で請求してくれていた。残酷かもしれなかったが、私には、それしか選べる選択肢がなかったのだ。
 その1週間後の、10月下旬のことだった。以前のCAの時の知り合いに、彼の乗機する運航スケジュールを調べてもらっていた。その週末、ANA1214便は、彼が副操縦士として、乗務する予定となっていた。ANA1214便 は、沖縄、那覇空港を午後7時20分に出発。午後9時に福岡空港へ到着する。途中、熊本県 の天草西海岸の上空を通過するのだ。前日、4、5年前によく通った博多駅へ新幹線で到着した。
 ホテル日航福岡は、博多駅から歩いてすぐの場所だった。部屋でシャワーを浴びたあと、NONNONの着心地の良い薄いピンクのコットンワンピース を着た。化粧は口紅だけにとどめた。いつものコンシーラーやラメは使わなかった。靴は、ヒールの低いベージュのパンプスを履いた。一人でホテルのメインバー「夜間飛行」のドアを開けた。入って左手のカウンター席にすわった。30代前半位の女性のバーテンダーが、笑顔で飲み物を訊いてくれた。黒い蝶ネクタイがとても似合っている。うす暗く、ほどよく冷えた店内には、心地よいジャズが流れ ていた。バーテンダーの居る向こうの壁には、高級ウヰスキーやブランデーのキープ棚があり、ライトに照らされ輝いている。好きなカクテルはモスコミュール。ウオッカベースだがジンジャーエールではなくジンジャービアで割ってもらった。チーズのセットも注文した。
 しばらくすると青いサテンのロングドレスを着たピアニストが現われ、バーの中央に置 かれたグランドピアノを弾き始めた。聞き覚えのあるビートルズの「レッツイッツビ-」 やポール・モーリアの「エーゲ海の真珠」などの曲を3~4曲ひいたあたりで、男性の バースタッフが、曲のリクエストを訊きにきてくれた。しばらく迷ったあと、ジブリ映画の「紅の豚」のメイン・テーマ「帰らざる日々」を頼んだ。子供の頃に何度も繰り返し観た。私がCAになりたいと思うきっかけになった映画だ。紙ナプキンに千円札を挟んで、さっきの男性スタッフに渡した。ピアニストの彼女は、しばらくタブレットで探し出した曲の音符をながめていた。私の方にちょっと会釈をして、イスにすわりなおした。首を左右小刻みに振ったあと、その両手
をピアノの鍵盤の上に静かに置いた。
 あの懐かしいメロディーが流れ出した。しばらく聴いていると、何かが胸に押し寄せ、そのまま涙となって流れ落ちた。曲を聴いているうちにその涙の理由がなんとなくわかってきた。それは、私が「女」という、「時は移ろいやすく、この世ははかないものである」ということを身体で知っている動物であるからなのだと、自分なりに理解した。明日は、初めて乗る天草エアラインという飛行機で天草へ行き、私にとっての最後となる智也を見送るのだ。
 翌朝、福岡空港でイルカの親子の絵柄の書いてあるプロペラ機に乗った。機種は仏ATR 社製のターボプロップ機だ。大型バスのような室内で、座席は10-Dだった。急加速を感じたあと、高度2700mに達した。眼下の景色が頭の中の九州北西部の地図と重なっていた。離陸から30分後の午前10時前に、天草空港に着陸した。時間はまだ、たっぷりある。 バスを乗り継いで、天草西海岸にある下田温泉のホテルまで行く予定だ。その温泉旅館の 屋上からは、天草下島の西海岸上空が眺められることを、GoogleMapのストリートビューで確認していた。天候だけが気がかりだった。
 本渡という小さな町のバスセンターで降りた。近くにあったマクドナルドで暖かいカプチーノをゆっくり飲んだ。再びバスに乗り、下田温泉へと向かった。途中、小さな川沿いの緑の山に挟まれた道路を通った。対向車とはほとんどすれ違わなかった。予約していた旅館の扉を開けると、私の母親と同じくらいの年齢の女将さんが、優しく出迎えてくれた。午後5時、教えられた旅館の外階段を登った。ANA1210便が、旅館の海側、 ほぼ真上を飛んでいくのが見えることを確かめた。飛行航路は同じ路線であれば、風向きが変わらない限りほとんど変わらない。翼のパイロットランプは、右翼のグリーンだけが見えていた。
 夕食を、ゆっくり頂き、温泉にもゆっくり浸かった。お湯はトロトロしていて、肌に優しい。普段はシャワーしか浴びることがないからか、湯船の中で揺れる自分の肌が艶かしくみえた。浴衣のまま、再び、屋上へと登った。屋上の床に、仰向けで、横になった。秋の涼しい風が、温まった身体を冷やしてくれる。空は満天の星空だった。
 再び、Flightrader24のアプリを開いた。あの日、智也が半分残したシャトー・ベイシュベルを、ペットボトルに入れかえて持ってきていた。持ってきたワイングラスで飲みながら待った。一週間経ったシャトー・ベイシュベルは、いくぶんまろやかな味に変わっていた。スマホのアプリ上では、ゆっくりとANA1214便が北上を続けている。
 ほろ酔い気分となった頃だった。左側の漆黒の空から、ゴーッとジェット音が聞こえだした。ANA1214便が私の右手、北側の空へ飛んでいくのが見える。赤いビーコンランプが 点滅するのだ。智也が、操縦している。私は、その飛行機に向かって、「おやすみ、遠いあなた」と私の中の智也へ本当の別れを告げた。智也のいる世界と私のいる世界は、もう引き返すことのできない別のところにあることを私は知っていたのだ。
 遠くで私の名前を、何度も呼び続ける女将さんの声で、ふと目覚めたような気がした。その声に起き上がり、明日、一人きりの東京へと帰る現実の私に戻った。

掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2023年1月号
発行ナンバー149
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