人間万事塞翁が馬 Written by Eiichi Nakamura

4月の雨に癒されて

天草医報

しめやかな雨の降る4月中旬の夜のこと。診療を終えた後,製薬会社主催のネット講演会に参加しました。その日,妻は天草地域医療センターの小児科当番医のため不在だったことも手伝って,講演会終了後に何をして過ごそうかと,独身時代のような自由な気分を味わっていました。こんなときは広い浴槽で一風呂浴びるに限ります。「そうだ,ペルラに行こう」と,近くのホテルの温泉施設に立ち寄りました。
 内風呂にしばらく浸かったあと洗い場で体をこすっていると,突然背後であっという声が聞こえました。声の主は若い父親です。1歳すぎくらいのこどもを抱きかかえて湯舟から出ようとしているところでした。そばにはもう1人,3歳くらいの男の子が黙ってそれを見ています。おそらく,父親がちょっと目を離した隙に,弟のほうが湯舟の底に一瞬沈みこんでしまい,慌てて抱き上げたのでしょう。
 弟くんはしばらく咳き込んでいましたが,その後ぐずることもなく,おとなしく抱っこされていました。よかった,大丈夫でした。父親は,わが子を心配そうにまた愛しそうに抱いたまま,しばらく佇んでいました。
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 小児科医として,天草で仕事をはじめてやがて25年になります。乳幼児健診をはじめ,保育園や幼稚園,小学校,中学校の健診まで含めると,年間50回程度は,子供たちを診ていることになります。しかし,これまでただの一度も虐待を受けた子供に出会ったことはありません。天草地域医療センターの小児科の先生も,やはり,虐待と考えられる症例は,ここ天草では診たことがないし聞いたこともないとおっしゃっていました。
 就職先も少ないせいか,天草からは若い人が都会へと流出しています。少子高齢化及び人口減少の速度は熊本市と較べても10年先んじており,天草の最も深刻な問題となっています。私の住む地域でも,ほんの10年前までは10軒中7~8軒には人が住んでおり,一度車を停めると徒歩で数件の往診を行うことが可能でした。しかし今や,一軒一軒回るのにいちいち車に乗って移動しなければならない有様です。中には,無人と化した集落もみられます。
確かに,天草は衰退の一途をたどっているのかもしれません。しかし,天草にはこどもへの虐待はありません。男たちがこどもに対しきわめて優しい土地柄です。そして,このことこそ,わが郷土の隠れた魅力なのだと思います。
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 露天風呂に浸かるころには,雨はやや大粒になっていました。風呂から出ると,先程の若い父親が,弟くんに紙パンツをはかせているところでした。父親は2人のこどもに天草弁で何か語りかけていました。思わず「大丈夫でしたか?」と声をかけると,父親はニッコリ笑って「大丈夫でした」と返事をしてくれました。2人の男の子は,温泉場の廊下を走って出て行きました。父親は「こら,走ったらつまらん」と言いながら,自分も走って追いかけていきました。その姿を見送りながら玄関口まで行くと,浴衣姿の40代の御夫婦と,そのどちらかの母親と思しき女性の3人が,温泉施設に入場しようとしていました。女性は70代と思われ,右手に杖をついています。玄関口で女性が草履を脱ぐと,男性は素早くその草履を靴箱へ持っていきました。その一連の動作の中に母親の身体を気遣う気持ちが感じられ,何か込み上げてくるものがありました。
 駐車場の車まで,雨に濡れながら歩きました。雨もまた良いなあと思えた春の夜でした。