十万山の四季Ⅸ ~紫陽花のように~

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 十万山には、様々な花が咲く。1〜2月の椿や梅、河津桜に始まり、晩秋の紅葉の後、師走のサザンカで終わる。向きや高度によって、その種類や色にも偏りがある。毎日のようにマウンテンバイクで登るとその花々に魅了される。最も魅かれるのは、登山道9合目の「藍の風薫る丘」からの絶景が見える崖っ縁に、一列に並んで植えられている紫陽花である。「藍の風薫る」の名前の通り、5月から6月にかけて、見事な藍色の花が咲く。天草のこの季節の空や海の色を、映し取ったかのようだ。丘の紫陽花は、青や藍などのブルー系で、その周囲や頂上へ向かう坂道の谷側は、赤やピンクである。

 紫陽花の色は、土壌の酸性度で決まるらしい。酸性度により土壌に溶けだすアルミニウムの量が異なり、そのアルミニウムを花の色素であるポリフェノールの一種であるアントシアニンが、どれくらい吸収するかによって青~紫~赤に変化するのだそうだ。ただ、同じ株から出ていても、中に異なる色になるものも散見されるから、その理論は絶対唯一のものではないようだ。

 私が紫陽花を好きな理由は、もう一つある。それは、枯れても散らないからである。6~7月の陰うつな梅雨時の薄暗いなかにもそこだけはそっと輝くように雨粒を乗せ咲いていた。8月の炎天下の中で火のでるような修行をし、残暑に耐えつつその色を次第に失っていく。鮮やかな色合いはゆっくりとその光沢を失い、褐色へと萎びてゆく。老醜を晒しても花としての修行を続けるのだ。他の花々は、桜をはじめとし、いさぎよく散っていくのにである。8月、9月としなびた褐色になったものが、果たしていつ自然に散っていくのかを確かめたくなった。毎日のように登っていた9月中旬のことだった、萎びた花の中に一輪だけ、見事に淡いブルーの花が咲いたこともあった。

 10月に入り、秋本番となっても、その老醜を晒していた。11月中旬の寒風の中でも、しっかりと枝に掴まって耐えていた。11月下旬、遂に紅葉の季節となった。藍の風薫る丘へと出てみると、紫陽花の萎れた花はいつのまにか、きれいに刈り取られていた。しかし、9月中旬に突然咲いた一輪の花だけは、わずかにブルーの色が残っていたためか、一人だけ寂しそうに刈り残されていた。5月初めから咲き始めた十万山の紫陽花は、実に半年間以上ものあいだ、そこで耐えてみせた。

 日本で生まれた紫陽花は東洋の美を感じさせる花としてヨーロッパで人気を博したのだとか。ヨーロッパに初めて紫陽花を紹介したのはスウェーデンの植物学者ツンベルクで、西暦1784年のことだった。
 今からちょうど200年程前の1820年代に長崎出島のオランダ商館付きの医師として弱冠27歳で来日し、日本近代医学の父と呼ばれるようになるドイツ人医師シーボルトは、特に紫陽花に惚れ込み、ドイツに帰り刊行した「日本植物誌」に美しい青色の紫陽花の画を掲載した。ミュンヘンの五大陸博物館に現在でも当時のまま保管されているという。シーボルトは、日本滞在時の恋人、楠本滝を偲び、ヨーロッパに持ち帰った紫陽花に「otaksa」の学名を付けて発表したとのこと。「おたきさん」のことがどうしても忘れられなかったから、といわれている。長崎の銘菓「おたくさ」の名前にもなっている。

 今年11月9日、99歳の世寿で亡くなられた瀬戸内寂聴さんは、最期まで岩手県二戸市にある天台寺で住職を全うされた。紫陽花が好きで、30年前に嵯峨野にある寂庵から株分けしたアジサイは4000株にも増え、毎年7月、天台寺あじさいまつりとして賑わうという。

 そういう話をアルコールのつまみとして、いつもの手練れ先輩医師と話していた。彼は、「老醜を晒しても、修業を重ねる」という文言に痛く感じ入っておられるふうであった。彼は突然、「俺は、もし邪魔にさえならないのなら、80歳までのあと10年、老醜を晒すことにした」と言い放たれた。私は、「90歳までのあと30年弱、老醜を晒します」と返した。

天草医報2022年1月号へ掲載予定 2021年12月20日校了

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