十万山の四季 XIII  ~この頃あったこと~

(ⅰ)ひとりでこどもを産んだ母

 あれは、今年の四月頃のことだったかもしれない。コロナ第8波が、段々収まり、一息付けていた頃だったろう。

 ある日の午後外来のことだった。少々濃いめの化粧をした派手なワンピースを着た20歳代前半くらいの母親と思われる女性が、少々強張った顔でまだ生後6ヶ月くらいの、泣き喚く女の児を連れて受診した。

「どうしたの?」と尋くと、「抱いている状態から、床に落ちて、頭を強く打ちました。」とのこと。「すぐに泣いたか?」「一時的に、意識を失ったりはしなかったか?」の2点を尋ねた。母親は、そのどちらの質問にも頷いた。一安心だ。母親に、一歳前後までの乳幼児の頭は、ゴムまりと似ていて、よほど強い衝撃でなければ、まずまず大丈夫であることを告げ、「もし何か、このあと、いつもと違う様子だったら、また受診してね」と伝え、診療を終えた。

 それから、一週間くらいした時のことだった。再び前回と同じ母児が受診した。訴えは、「玄関の段差から転落して、頭を強く打ちました。」とのことだった。今回も前回と同様に、母親はきつめの化粧と強張った顔。乳児の方は、泣き喚くばかりである。前回と同じ質問をして、同じ答えを得た。また、様子をみてもらうこととなった。

 そのあと、数日、経過した頃だったと思う。近くの温泉に浸かりながら、ゆっくりしていた時だった。あの母児に何かが起きているような妄想が、急に頭を襲った。虐待の感じではない。何か、その母児が、暗い洞穴の様なところに居るような感じがしたのだ。無性に気になったが、温泉から出るとそのままそのことを忘れていた。

 それから1〜2ヶ月くらい経ってのことだった。再び、母児が受診した。訴えは、「車から降ろす時に落ちて、頭をアスファルトで強く打った。」とのことだった。母親は強張った顔のままだった。乳児は前回同様、泣き喚いていた。

 その乳児を、自院の70歳代になるベテラン現役看護師に預け診察室から出した。残りの2人の50代看護師にも、外来診察室から出るように命じた。診察室には、母親と私、二人きりとなった。母親がイライラしているのが、その顔色から伝わった。なぜ、こんなに何回も、落としたり、転落したりするのかを尋ねた。通常では、考えられないからである。すると母親は、「児が、いつも泣き喚いているので、手に負えない」と、私に噛みつく様に応えた。「それは、あなたがイライラと緊張しているからだ。こどもは、親の鏡だからね。」と返した。

 「なぜそんなにイライラするのかな?御主人は?今、誰と住んでいるの?」と少々、踏み込んで尋ねた。しばらく彼女は、下を向いたまま黙っていた。こちらも黙って、待った。

 お互いに黙ったまま、2-3分が経過した頃だったろう。おもむろに、顔をあげた彼女は、訥々と話し始めた。

 「主人はいません。今は、実家の両親と4人で住んでいます。」

 「御主人とは別れたの?」

 「結婚していません。」

 今度は私の方が、しばらく黙る番だった。しばらく黙ったあと、「天草にはいつ帰ってきたの?」と尋いた。すると、しばらくして、「3か月前です。」と答えてくれた。最初の受診は、天草に帰ったばかりの頃だったのだ。

私 「それまで、赤ちゃんとどこにいたの?」

母親「東京のアパートです。」

私 「妊娠してるときは?」

母親「一人でアパートに住んでいました。」

私 「東京で、何をして暮らしていたの?」

母親「いろんなバイトをして、生活してました。」

 相当苦労してきたことが、その顔色からうかがえた。

私 「妊娠した時、中絶のことは、頭をよぎらなかったの?」

母親「何度も何度も考えました。」

私 「相手の男性には相談しなかったの?」

母親「何度も相談したり、すがりついて行ったりしましたが、好きにしたら?としか、言われませんでした。」

私 「相手の男性は、生まれた赤ちゃんのこと抱いてくれたのかな?」

母親「出産する前から、今まで、ずっと会ってません。」

 この頃から、彼女の目には涙がたまっていたのだが、泣声は出さなかった。

母親「生んだあと、しばらく東京に居ましたが、育てるのに困って、天草の両親の元に帰って来ました」

私 「親からは、おこられた?」

母親「口もきいてくれません。」

私の心にも何かが、忍び寄っていた。言葉には出来なかった。しばらく、双方、黙ったあと、私の方から、口を開いた。

 私「産んで、良かったねー。」と。その声は、自分でも驚くほどの鼻声になっていた。

 しばらくしたあと、母親は、堰を切ったかのように大声で泣きだした。しばらく泣くと、しゃくりあげるような泣き方に変わり、だんだん落ち着いていった。

 それから3か月くらいした頃だった。

 あの母親が、地味で質素な天草に似合う服で、こどもを抱いて診察室に入って来た。1歳過ぎになるとできる、ワクチンのために来院したのだ。化粧っ気もない母親は、こどもと一緒にニコニコしていた。母親は私と目が合うと少しはにかんだ笑顔になった。とても美しい顔だった。

 ワクチンを終え、その後数名の方の診察をしたあと、診察室を出た。待合室には、ワクチン接種後の待機時間であるのだろう。さっきの母児が、ソファーにすわっていた。その母親の横には、母親の母と思しき、50前後の女性が、すわっていた。彼女と目が合った。

 彼女は黙って坐ったまま、私にうなずいてくれた。

(ⅱ)牛深 やすらぎ温泉にて

 6月に入ると、コロナ第8波もすっかり落ち着いていた。5月の連休明けには感染症法2類から5類にもなり、世間は安心した空気に包まれていた。Yahooニュースでも、コロナの話題は、いつの間にか挙がらなくなっていた。

 昨年の、施設クラスターへの医療支援でともに戦ってくれた看護師を始め、自院職員に慰労の意味を込めて、一緒に旅に出たくなった。看護師たちに尋ねると、「韓国が良い!」との答えが返ってきた。やはり熟女は、韓国ファンが多い。

 8月のお盆過ぎに、博多港から、クィーンビートルで行く、釜山への船旅を思い付いた。私自身が、クィーンビートルなる船に乗りたかったからである。

 ネットであちこち検索した。旅人の構成は二江の自院クリニックの看護師3名と事務一人。それに、私達夫婦の6名である。あーでもないこーでもないと、迷っているうちに、お盆のあとのクィーンビートルの席は失くなっていた。仕方なく、福岡空港を出発する飛行機での往復に変え予約した。

 7月に入り、少しずつ、コロナ感染の受診者、発熱外来が増えて行った。第9波が、襲ってくると云われていた。沖縄では医療ひっ迫が起きていると、ニュースは告げていた。それでも、嘱託を勤める施設でクラスターさえ出なければ、行けると高を括っていた。

 7月下旬に、嘱託を勤める高齢者施設で、2ユニット、13名のクラスターが発生した。すかさずラゲブリオを処方し、いずれも軽症のまま経過した。今回は、自室に居住させたままで医学管理を行った。無事に10日後の8月初めには、収束した。

 その数日後、昨年、医療支援に入った障害者施設から相談があった。8名の陽性者が出たとのことだった。直ちに往診し、診察・処方をした。その後2日間に、3名の新たな陽性者が出て、11名のクラスターとなったが、いずれも軽症で経過した。お盆前には収束となった。

 YouTubeで、釜山観光をいろいろ調べていた。あれこれ、オプショナルツアーも予約した。出発は8月17日(木)の朝の飛行機だ。2泊3日の予定で、8月19日(土)夕方着の予定だ。

 お盆前頃から、発熱外来は、多忙を極めた。発熱外来と云っても、コロナ感染症以外にも、ヘルパンギーナ、RSウイルス、インフルエンザA,熱中症などなど、小児科外来を受診する患者は、ほぼ全て発熱をともなうのだ。

 8月14日、昨年医療支援に入ったことがきっかけで、今年4月から嘱託医を勤めるようになった障害者施設に付属するグループホームより、発熱者の連絡があった。コロナ抗原検査をすると陽性となった。8月16日には、3名となり、診察・処方をした。

 韓国旅行に行くため、8月16日の診療後の夕方,車に看護師らを乗せ、博多へ向かった。翌朝、福岡空港国際線搭乗口まで一緒に行ったが、出発手続きのギリギリの処で、さんざん迷った挙げ句、旅行に行くのを断念した。旅先のことは妻に任せ、皆を見送った。

 福岡国際線空港駐車場に置いた車に乗り込み、ひとり天草へ帰ることにした。8月17日の高速下り線は、スムーズだった。真っ青な空に白い入道雲が目に沁みた。

 昼過ぎに施設に到着すると、コロナ陽性者が一人増えていて、計4名となった。診察、処方をした。

 翌日の8月18日、ロードバイクでのサイクリング旅に出ることにした。コースは、いつもの牛深一周だ。やすらぎ荘に泊まれるか電話をすると、空いているとのこと。施設での診察後、午後1時に、ロードバイクを車に積み込み本渡を出発。午後2時には、やすらぎ荘に到着した。3時間足らずで、やすらぎ荘→深海→久玉→牛深海彩館→魚貫→路木→やすらぎ荘へと帰る、一周50㎞のサイクリングを無事に楽しんだ。ヘルメットの下に被った帽子のツバからは絶え間なく汗が滴り落ちる。あちこちの自販機でアクエリアス600mlを、計4回、一気飲みした。牛深海彩館の2階通路に設置された無数の風鈴の音がとても涼しく感じられた。

やすらぎ荘にチェックインし、温泉へ。しばらく内風呂に浸かったあと、露天風呂へと向かった。露天風呂に他の客の姿はなかった。湯船に浸かろうとすると、一匹の大きなアブが、私の身体にまとわりついてきた。手で払ったが、しつこく付きまとってくる。すぐに湯船に首まで浸かった。これで、顔と頭以外は大丈夫だ。

 私の坐った位置のすぐ右手の岩の上に、さきほどのアブが止まった。こちらを見ているのがわかった。まだ狙われているのだ。急いで、頭と顔に、湯船のお湯を何回もぶっかけた。その後も、相変わらず、アブは私の右手の岩の上で、あちらこちらと細かく移動しながら、こちらを見ている。イヤだなあと思ったが、ふと自分も死んだあとアブになって、この世に戻るかもしれないという気がしてきた。それならあまり嫌がらなくても良いかな、などと妙なことを考えていた。その時だった。アブの居る岩の向こう側に何かの爬虫類のような背中が、一瞬垣間見えたような気がした。

 その後しばらくして、アブはそれまでの動きとは変わって、やや落ち着きのない動きになったような気がする。飛び立とうとした瞬間だった。体長4~5㎝くらいで、周囲の岩と同じ色合いとなったカエルが、その口で、先ほどのアブを、既に咥え込んでいた。咥え込む瞬間は見えなかった。アブの身体は、頭の部分だけ、カエルの口の中にあって、その他の部分は外に出ており、アブの複数の肢は、まだ盛んに動いていた。

 カエルはその咥え込んだ姿勢のまま、全く動こうとはしなかった。私も、その姿に見とれて、湯船の中でじっとしていた。

 次第、次第に、アブの身体が、少しずつカエルに飲み込まれていく。

 5分くらい経った頃、アブの身体はその尻の部分だけが見えていた。カエルは、ようやく、四つ足でゆっくり歩いてそこを去って行った。

 あのアブは、自分がカエルに食べられてしまったのを自覚することは出来なかったと思える。卵から孵化し、自由にこの世を謳歌していたのだ。手頃な人間を見つけ、刺そうと狙っていた処だったのだ。その瞬間に自分の命を落とすとは、つゆ知らなかったのだ。

 あのアブは、実は、私自身なのではないか。私も、自分に忍び寄る自分とは違う世界に存在する何者かを察知することは出来ない。謙虚だとか傲慢だとかも関係ない。知りようも避けようもないのだ。今のこの一瞬を、自分の手で確かめながら、生きてゆくより他に手はないのだ。

 翌朝、施設での診療を終えたあと、福岡空港へと車で迎えに行った。皆、お土産を満載した大きな袋を両手に抱えていた。その姿を見て私もこの世に戻った。

掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2023年9月号
発行ナンバー151
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