温泉の効用

2年前から,介護老人施設の嘱託医として看取りや病状の重い方の管理を担当するようになりました。そのため,週末の旅行や趣味の登山に出かける機会がずいぶん減ってしまいました。ただ,幸い,地元天草は良質の温泉に恵まれているので,暇を見つけては温泉施設巡りを楽しんでいます。

5月の晴れた土曜日,本渡の温泉施設ペルラの湯船『海の湯』の露天風呂に腰までつかります。見上げると背の高いフェニックスの葉が涼風に揺れています。湯島や三角岳が青い水平線に浮かび,天草上島の山々が一昔二昔前歩き回ったころのことを思い出させてくれます。空に浮かぶ白い雲は次第にその形を変えながら夕焼けに染められていきます。とても美しい天草の風景です。

露天風呂から水風呂,内湯と出たり入ったりを何度も繰り返していると,いつの間にか意識がぼんやりとし,周囲に対する注意が遠のいて,あっという間に時間が過ぎてしまうことがあります。ぼんやりとしているようなのに,日頃から抱いていた疑問や,どうすればよいかわからずそのまま放置していた課題が突然鮮明に浮かび上がり,その答えや解決策まで思いつくようなことが,何度も起こることに気づきました。その瞬間,自分の立場が明確に示されたり,他人の意見の隠された意味が突然ひらめいたりするのです。しかし,そうしたことは,入浴中だけでなく,日課としているウォーキング中にも,起こることがあります。30分程度のウォーキングでは起こらず,1~2時間歩き続ける時に起こるのです。以前観たNHKスペシャルで,「東大哲学科の某教授は,習慣にしている3時間の皇居周囲のウォーキングの途中,ひらめいたことや気づいたことを手帳にすぐに書き留めている」という話がありました。また,京都の哲学の道は,哲学者西田幾多郎が,そこで歩きながら哲学的思想を深めたことからその名前がつけられたそうです。入浴もウォーキングも,ある一定時間以上を持続することで,脳内に特殊な状況を作り出すのではないかと思いました。

ある日,車のラジオが,入浴中に起きるある種の精神状態を「デフォルトモードネットワーク」の状態というと語っていました。デフォルトモードネットワークは,意識的活動をしていない時のいわば脳のアイドリング状態なのですが,意識的活動をしている時の何倍ものエネルギー消費をしているといわれています。その活性化状態では,後部帯状回から前頭葉までのいわゆる大脳辺縁系の活動に変容がおこり,ドパミン,セロトニン系の神経細胞の賦活化が起こることで,海馬や扁桃体など記憶や情動・本能に関する領域と知性的活動をになう前頭葉内側の間の連携系の安定化装置が緩むとされています。その状態は意識変容状態のひとつとされ,無意識の世界への扉が開く時とされています。魑魅魍魎のものたちが現れることもあれば,芸術的創造性が爆発することもあり,深い宗教体験がもたらされることもあるとのこと。マインドフルネスや瞑想の基礎になっている状態とされています。

アルツハイマー型認知症での責任病巣部位は,デフォルトモードネットワーク状態での脳の活動部位と一致しているといわれています。また、アルツハイマー型認知症の発症や進行の予防には,ウォーキングがもっとも効果があるとされています。ウォーキングによるデフォルトモードネットワークの活性化が役割を演じているとすれば,ゆっくり浸かる入浴もまた,認知症の予防的手段の一つになりえるのではと考えます。これからも,ウォーキングと入浴を自分の生活を支えていく二つの柱として楽しみたいと思っています。増加しつつある体重の抑制策としても有効ですからね。

掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2017年5月号
発行ナンバー132
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