卒後40年の同期会

 江戸時代後期に曲亭馬琴により著された長編小説「南総里見八犬伝」は、南総里見家の 伏姫の自害した腹から白く輝く光となって飛び出した八つの魂が、関八州の各地で人間と して生まれ出て、さまざまな苦難や修行の旅をしたあと再び南総へと戻り、最後には昇華 して仙人となる壮大な物語だ。

 40年前、自治医大6期生108名は、それぞれが「地域医療」という魂を宿しながら全国の 都道府県へ散らばって行った。皆がそれぞれ、いろいろな「旅」をしてきたのだろうと思 う。病気や怪我による挫折もあったことだろう。仕事で抱える悩みもそれぞれであったろ うと思う。人生にはよくあるトラブルも経験したはずだ。
 2023年10月8日、4年ぶりとなる同期会が開催された。幹事は青森県出身の今明秀君であ る。「劇的救命」の八戸市での開催だ。妻も同伴することとなり、3泊4日の旅の予定を立 てた。 10月7日と10日は自分と妻のクリニックとも休診とした。10月6日の天草エアライン最終便で福岡へ飛び、一泊したあと、7日朝の便で福岡空港を出発。伊丹空港経由で、青森空 港へ着いたのは正午頃だった。空港のレンタカー受付で車を借り「みちのく二人旅」が始まった。 八戸市へ至るルートをナビで検索し、かねてより行ってみたかった十和田湖コースを選んだ。
 途中、酸ヶ湯温泉の看板が出てきた。千人風呂と呼ばれる巨大な混浴風呂に妻がぜひとも入ってみたいといので、「混浴なのに大丈夫?」と尋ねると、「こんなおばさん、誰も気にせんよ」と返す。お互い風呂を出る時間を決めることなく入浴した。硫黄の匂いと ともに湯気が立ち込めていた。大風呂の奥では女性の団体客の声が響いていた。八甲田山への登山の話をしているようだ。その中に妻の声が混ざりだしたのに気付いた。思ったとおり長風呂となった。
 レンタカーへ戻り、奥入瀬渓流と並走しながら十和田湖に向かった。湖畔に立つ「乙女の像」からは、力強さ、生々しい肉感が迫力をもって伝わってくる。女性の生き抜く生命力に息を呑んだ。彫刻の台座には「この原始林の圧力に堪えて立つなら幾千年でも黙って立ってろ」という光太郎の詩が刻まれていた。 あとは、予約したグランドサンピア八戸へ向かうばかりだ。明日の同期会はこのホテル で開催されるのだ。カーナビを頼りに午後7時過ぎにホテルへ到着。夕食は近くの居酒屋で済ませた。カウ ンターにすわった地元の常連客との会話が楽しかった。
 翌朝、一階におりると、レストランに安食夫妻(愛媛県)が座っている。一緒にコー ヒーを楽しんでいると安食夫人に今日の午前中の予定を尋ねられた。種差海岸に行くと答 えると、ぜひ自分も行きたいという。私と妻、安食夫人の3人は午前9時に集合し、レンタカーで種差海岸観光案内所へ向かった。夫人は、数年前から海外への一人旅にハマってお られる。私の妻も、60歳でダイビングを始めた頃からバリ島、タイ、モルジブなどへの海外遠征を始めたところだ。旅行の話で二人は盛り上がり、最後には来年の3月に奥様同士でインドへ旅行することが決定してしまっていた。 種差海岸の、東山魁夷画伯が「道」を描いたポイントへ到着。魁夷がこの景色の中で 「道」を描きながら画家として生きていくことを決意したのだと思うと感慨無量であった。種差海岸から海岸沿いに進み蕪島神社に詣でたあと、ホテルへと帰った。
 午後、八戸市民病院へレンタカーで向かった。病院玄関には仲間が20名ほど集まっていた。高田君(鳥取県)の奥様が緊張した面持ちで立って居られるのを垣間見た。同期会は、八戸市民病院でのドクターヘリの見学会から始まった。今先生のユーモアたっぷりの説明により楽しい見学会となった。質疑応答の際、大上君(山口県)が、案内してくれていた超美形と思われるERナースに、マスクをとってお顔を見せて貰えませんかと頼んでい た。自分もそうお願いしたかったところだ。ありがとう大上君。彼女がマスクを取ってくれなかったことはいうまでもない。 その後、皆でグランドサンピア八戸へと戻り、講演会の場となった。小野同窓会会長 (秋田県)のあいさつで始まり、深瀬君(山形県)による「山形県の地域医療の問題点と その解決への考察」という講演を聴いた。次には、自治医大教授も務める村松君(群馬県)による「ウイルスを使った神経難病に対する遺伝子治療」という1時間にわたる講演 も拝聴した。
 講演会の後は懇親会だ。八戸の郷土料理を中心にオードブルがあふれ、アルコールもふんだんにあった。各人の近況報告の途中から、酔いが回った安食君が茶々を入れ始めた。 ワインボトルをつかみ、安食君の横に分け入り二人差し向かいで飲み始めた。二次会は、 地下のバンケットルームへ移って始まった。部屋に備えられた大型画面では日本対アルゼンチンのラグビー中継も始まった。ラグビー部のキャプテンだった小林君(熊本県)が試合の模様をわかりやすく皆に解説してくれていた。私は試合にはあまり興味がなかったの で4〜5名の奥様方とばかり話をしていた。高級クラブの雰囲気だった。飲んでいると、 あっという間に23時となり、皆惜しみながら解散した。

 翌朝、レストランでは皆が朝食をとっていた。7〜8人が集まっているテーブルにイスを 持ちこみ話に加わった。私の与太話に皆笑いながら付き合ってくれた。その屈託のない笑い声は、40年の時を超え確かに「あの頃」と繋がっていた。 朝食の後、愛媛へ帰る安食夫妻をレンタカーに乗せ、楽しくもバカバカしい会話を続けながら三沢空港へ送り届けた。 その後向かったのは今回の青森の旅で一番行きたかった場所だ。日本三大霊場のひと つ、下北半島の恐山である。三国連太郎の主演した映画「飢餓海峡」を観て以来、一度は 訪れたいという思いが募っていた。三沢空港を出てレンタカーで北上を続けると、途中から急斜面と急カーブが連続する道となり、やっと降り道になったかと思うと急に視界が開け、恐山霊場の看板が見えた。恐山霊場は、亡くなった人を呼び戻し自分に乗り移させて 死者に語らせるイタコで有名である。「口寄せ」ともいわれる。
 両側に阿像・吽像のある寺の山門から入り境内を抜け左の方に歩くと、硫黄の匂いに 包まれた瓦礫の斜面のあちこちに石積みのケルンが作られていた。そのケルンには色とりどりの風車がたくさん差し込まれている。多くのケルンに囲まれ、地蔵菩薩や観音菩薩像が立っている。ここは賽の河原なのだ。私もケルンの石の狭間に、境内の売店で500円で買った赤や黄色に縁取られた風車を刺し込んだ。風に合わせるように止まったり回ったりした。回る時には、風車は「キュルキュルキュル」「ヒュルヒュルヒュル」と小さく鳴い た。
 霊場参拝の後、さきほどの道をひたすら南下した。今日で三泊目だ。温泉に入浴後、 一階レストランで夕食をとることにした。客はまばらだった。夫婦向かい合わせで座ったものの、寒々しく空虚だった。今朝方賑やかな時を過ごしたばかりだったからだろう。食後、部屋で水割りを数杯飲んで早めに就寝した。そして、翌朝9時前、青森空港から飛行機を3回乗り継ぎ天草へと帰ったのだった。天草に戻った後も、あの最後の夜のレストランの寒々しさ、侘しさを何度も思い返していた。皆が去った後で自分だけ取り残された気 分だったからかもしれないと考えていた。
 天草に戻って2週間くらいしてのこと。大学から令和5年度同窓会名簿が送られてきた。 当たり前のことだが毎年少しずつ厚くなっていく。各県の6期生の欄をみると、都合9人が 「逝去」となっていた。そうか。あの夜、恐山から帰った私は、谷本君(三重県)や矢沢君(福島県)らのことを思い出していたのではなかったか。彼ら親友が亡くなったのは、 今の私の息子よりもっと若い時分のことだったのだ。

 30年後の同窓会名簿で、6期生のうち「逝去」となっていない者は果たして何人いるのか、自分はどうなっているのか、同期生の者が全員「逝去」となった時にはその期生の名簿は同窓会名簿から削除されるのかなどと考えている自分がいた。その頃には、我々同期生の魂も、再び、栃木、薬師寺の空に参集しているのかもしれない。


掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2024年1月号
発行ナンバー152
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