天草豪華客船シャンパン・クルーズ

 松尾芭蕉が、門人曾良を連れて、東北へ向かう「奥の細道」に旅立ったのは、西暦1689年3月27日のことだった。総距離2400㎞、150日間(5ヶ月)にわたる長旅だった。芭蕉は、もはや自宅へ帰ることはないと分かっていたのか、深川(東京都江東区)の自分の家を売却処分した上で、隅田川のほとりの千住を出発した。

 私も今年1月、前期高齢者となった頃から、自分の身体に自信がなくなってきたせいなのか、どうも腰だか尻だかが浮ついて、じっとしていられなくなった。それは逆に、日常の日々が落ち着いてきたからかもしれない。とにかく、頭の中は、自分の知らない街や風景を彷徨うのだ。高級ホテルや老舗の有名旅館には泊まりたくない。安いビジネスホテルでいい。食事やアルコールも、その土地の居酒屋かコンビニ弁当で十分なのだ。しかも、事前にスケジュールを決めず、予約もすることなく、行きあたりばったりの旅をしたいのだ。それはやはり、作家 沢木耕太郎の「深夜特急」を読んだ影響なのかもしれない。

 そう考えていた今年の5月の連休のことだった。4年間にわたり世の中を騒然とさせたコロナ禍もすっかり姿を消し、実に、元の日常が戻ってきていた。しかし、あいにく、4月29日(月)と5月3日(金)5月4日(土)の3日間は、二江の自院クリニックと、妻の十万山クリニックは、天草市の休日・小児科当番医にあたっていた。旅に出るのは困難だ。そこで、一計を案じた。天気のよさそうな日を選んで、鬼池港―口之津港間のクルーズ旅に出よう。5月3日は、久々の快晴だった。風もなく海は穏やかだった。夕方5時に、無事に当番医を終了し、本渡の自宅へ帰り、すぐに準備をした。シャンパンは、朝から冷蔵庫に冷やしていた。2年程前、本渡のスーパーで爆買いしたもののひとつのヴーヴ・クリコだ。シャンパングラスは3つ。セブンイレブンで、ハムやチーズも買い、保冷バッグに詰め込んだ。妻と、福岡から帰省中の次女の2人を車に乗せ、鬼池港へ出発した。フェリーは、午後5時45分出発だ。帰りのための運転代行を、午後7時に鬼池港に予約した。

 鬼池港から口之津港までは、片道1人540円だ。3人で1620円の切符を購入。帰りの切符は、口之津港で購入しなければならないとのことだった。フェリーの桟橋の袂で、立ったままゲートが開くのを待った。車の通る部分のいちばん左側に、人の通るスペースが、ロープで分けてある。そこを通り、船内へ。階段を登り、船内客室へは行かず、そのまま2階の船尾の展望デッキのベンチ席へと座った。やがて「ボーッ」と汽笛が鳴り、フェリーは離岸した。離岸したあと、フェリーは「く」の字状に船首と船尾を入れ替えたあと、船首を口之津港へと向けた。
 鬼池港の沖の防波堤を過ぎた頃、シャンパンの栓を開けることにした。栓をまわすが、ビクともしない。それを見て妻が、自分の頚にかけていたタオルを黙ったまま差し出した。なるほど、タオルで栓をつかめとのことだな。その通り、左手でタオルにくるんだ栓を握ったまま、ボトルの底を右手で時計回りに廻すと、ゆっくりコルク栓が回りだすのがわかった。しばらく廻していると、「シュッ」と吐息のような低い音とともに、急に抵抗がなくなった。シャンパングラスをそれぞれ持ち、黄色のラベルの貼られた「ヴーヴ・クリコ」のボトルを傾け、注いだ。
 細長い円錐形のグラスの底からは、泡が細く真っ直ぐにつながったまま、水面へと上がっていく。フェリーの展望デッキからは、青海原の中に、白い泡の航跡が真っ直ぐに続いていた。

 フェリーが口之津港へと続く入り江に入った。左手には、かつて島原半島一周のロードバイク旅の最後に立ち寄った口之津歴史民俗資料館も見える。やがて、フェリーは口之津港の桟橋に停まった。フェリーを出て、帰りの切符を買いに港の施設へ行った妻を見送り、桟橋の上でぼーっとしていた。ふと、桟橋のフェリーとは反対側を見ると、30ft前後のヨット・クルーザーが3隻、桟橋沿いに縦に停泊している。それぞれの船には、一人ずつ70歳前後と思える男性が、コックピットに座っておられた。
 その中の一人の男性に声をかけた。「どこから来られましたか」彼は、「八代港を今朝出てきました。後ろの2隻は私の仲間です。」彼らは30ft超えの大型クルーザーヨットを単独で航海し、この口之津港へと来ていたのだ。これからどうされるのかを尋ねた。連休でもあり、明日は、野母崎の岬を超え、五島列島へでも遠い航海へ行かれるのかなぁと思ったからだ。すると彼は、「今日はこの艇の中で一泊し、明日は八代へと帰ります。」と言われる。彼らもまた、私と同じ様に、「プチ・クルーズ」を楽しんでおられたのだ。自分の中のどこかと、彼らの行動が重なるような気がした。

 口之津到着から15分後、フェリーは鬼池港へ向け出港した。口之津湾の入江から、早崎海峡へ出た頃には、シャンパンボトルも空になっていた。
 太陽が、夕方の空をオレンジ色に染めながら、落ちていく。西へと沈んでいくのだから、天草灘の海へと沈むサンセットが見られると思っていたのだが、意に反して太陽は、海の向こうにある山稜へと沈んでいった。グーグルマップで見ると、長崎半島だった。

 シャンパンの楽しめる豪華サンセット・クルーズだった。

 陽が沈んだあとの午後7時に、フェリーは鬼池港へ着岸した。代行運転の車がすでに待機してくれていた。本渡の自宅には、午後7時20分頃には帰り着いた。「当てのない旅」はいいものだ。高齢者になった今、自分の死後に訪れることになる旅の練習をしているのではないか。

 芭蕉は、奥の細道への旅に出た5年後、大阪、御堂筋辺りにあった門人の屋敷の裏座敷で病没した。51歳の時だった。最期に詠んだ俳句は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」だった。

掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2024年7月号
発行ナンバー153
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次