幸せのカタチⅣ プラネタリウム ~My Heart will go on~

はいていたスニーカーを脱ぎ、靴下も脱いだ。コットンパンツを両方、膝上までめくり上げ、周り に人影のない大小の石の入り混じった石河原の岸辺から、一歩、海へ入った。10月中旬の天草 の海は、まだ温かみがあり、小さな波が足を洗うのが心地良い。足元の海水は透き通っていた が、数m位視線を先にやると、もう青いばかりの海面だった。

智博をもっと感じたくて恐る恐る、一歩一歩、沖へと踏み出した。海岸の傾斜から予想したよりも 急に深くなっている。膝まで海面がきた辺りで、しばらくたたずんでいた。

2ヶ月前の8月下旬、智博はこの海岸の右手に見える岩場の上で、好きな魚釣りに来ていた。青 魚をたくさん釣って、昼前には帰る予定だったらしい。釣場から左手は、天草の観光名所でもある 妙見ヶ浦(ミョウケンガウラ)という海岸で、象さん岩という離れ岩がある。その近くで家族連れが、 海水浴を楽しんでいた。

父親とこどもが3人。小学6年生の男の子と小学3年生の女の子、それと5歳の女の子だ。突 然、母親らしい女性のかん高い声が、その海岸中に響き渡った。「助けてくださーい、助けてくだ さーい。」と何度も大声で叫んでいたらしい。父親はその時、いちばん下の女の子を必死で抱えな がら、なんとか海岸まで泳ぎ着き、母親に女の子の身体を預けたあと、再び沖へと泳ぎだした。

小学生の男の子と女の子が、沖へと向かう潮流に流されていた。

伝え聞いたところによると、智博は、はいていた靴を脱ぎ、ゆっくりと上着とズボンまで脱いだあ と、自分の居た岩場から、直接、海へと飛び込んだらしい。

そして、父親が向かう小学生の女の子ではなく、何とか懸命に、岸へと向かって泳ごうともがい ていた、最も沖へと流されていた男の子の方へ、まっすぐに向かって行った。

溺れかける男の子に近づき、しばらく二人でもみ合っていたようだ。何とか男の子の背中をつか んだ智博は、沖へと向かう流れに、逆らい、逆らい、二人の身体を何とか岸近くまで押し戻したあ と、力尽きるように海中へと消えて行った。残った男の子は、そこから何とか自分の力で、岸まで たどり着いた。その後、しばらく沖合で、水しぶきが上がっていたあと、父親と小学生の女の子も、 無事に岸辺までたどり着いた。

消防や警察、海上保安庁、地元のたくさんの漁船による懸命の捜索にもかかわらず、智博が発 見されたのは、その事故から3日後のことだった。

妙見ヶ浦より北側、4〜5km離れたブルーガーデンと呼ばれる高台の岬から、海を眺めていた 観光客が発見してくれた。遺体は傷も少なく、きれいだったらしい。天草警察署で検死を受けたあ と、駆け付けた会社の身元引受人へと引渡され、そのまま天草で荼毘に付され遺骨となって東京 へと戻ってきた。

智博は、東京駅近くの京橋に本社を置く大手建設会社のエンジニアリング事業部にある設計課 の技師だった。今年の4月から10月までの予定で、半年間、熊本県の天草へ派遣されていた。天 草で建設中の大型架橋施工中のジョイント企業への出向だった。4月に天草へと赴任し、現場近くのホテル住まいをしていた。東京本社へ出社するのは月1回のみで、あとの休日は好きな魚釣り やロードバイクでのサイクリングをして過ごしていた。

月に一回会える日には、智博の部屋で一緒に料理をして、コンビニで買ったスパークリングや ワインを楽しんだ。ワインを飲みながら、最近読んだ本をお互いに報告しあった。一緒に爆笑した り、目に涙を浮かべたりしてしまうことも度々あった。

その日曜日は、8月のお盆も過ぎた、少し朝晩が涼しくなりだした頃だった。朝からLINEで、水 平線の見える真っ青な海の写メを送ってくれていた。釣れた魚も嬉しそうな顔とともに写メして送っ てくれた。

私たちは、今年のクリスマスイブの土曜日に、親しい仲間達だけを呼んでの結婚式を挙げる予 定だった。

智博は、45歳。二度目の結婚。 私は42歳。二度目の結婚だ。

娘は今年の3月、高校を卒業し、札幌の大学へと進んだ。札幌での一人暮らしの生活が落ち着 いてきたと思える頃、いつものLINEではなく、「今までありがとう。お母さん、幸せになってね。」と の言葉の添えられた、手書きで書かれた手紙が送られてきた。まるで、豪華な花束を贈られたよう な気分になった。一人住まいとなった井の頭線沿いの杉並区西永福町にあるアパートも、今月 いっぱいで引き払う予定としていた。港区に在る智博のマンションへと引っ越す準備をすすめてい た。

智博は、一度目の結婚では、辛い別れを経験していた。東京工業大学工学部建築科を卒業し た智博は、東京駅と銀座の中間地点にあたる京橋駅近くに本社のある建設会社に就職した。入社4年目に上司に強くすすめられ、常務の娘と結婚したようだ。その相手の女性には、かつて 暗い恋をしていた男性が居た。智博と結婚したあとの5年目、その彼と偶然再会した。

私は、高校卒業後、栃木の実家を出て都内の私立女子大に通った。卒業したあと人材派遣会 社に登録し、経理の派遣事務員として働き始めた。商社マンだった夫と結婚したのは24歳の時 だった。すぐに女の子を授かった。夫に、悪性腫瘍が見つかったのは、娘が小学生になろうとする頃だった。1年間くらいの入退院 を繰り返したあと夫は旅立って行った。

娘と二人暮らしになった私は、栃木の実家へ戻ろうとも思ったが、小学生になって友達の出来 始めた娘を転校させることは忍びなかった。同じ小学校へと通える西永福町のアパートを借り、前 の会社に再び登録して仕事を再開した。

大手S建設の経理事務に出向していた時、経理課長に呼び出され正規の事務職として就職し てみないかと誘われた。私の方もこの会社の経理事務には不思議なほど馴染んでいて、働きやすい職場であると感じ ていたため、すぐにうなずいた。

西永福町のアパートから京橋駅までは、京王・井の頭線と渋谷からの地下鉄銀座線を使えば 45分程度で通えた。S建設本社ビルは、地上22階、高さ100mを超える高層ビルだ。智博とは朝のエレベーターで、時々一緒になっていた。彼が、優しい笑顔で私をみる視線に気付いたのは、正社員として働き始めて2-3年くらい経った頃だったろう。お互いの所属と名前は、胸の社員証でみて知っていた。

夏の終わりのある朝のことだった。ちょっと遅刻気味で、京橋駅で地下鉄を降りたあと、雨の降る中を小走りのまま会社のエレベーター入口へと向かった。五つあるエレベーターのうちひとつだけが開いていた。その扉が閉まりかけた時、突然中から 手が出て、エレベーターの扉は再び開いた。智博が、ニッコリ微笑んだまま、雨に濡れ息を切らす私を見降ろしていた。舌打ちする人の顔も浮かんだ。経理部のある4階のフロアーで降りようとする私に、智博は一枚の名刺を差し出した。橋本智博、第二設計・エンジニアリング部係長とあった。名刺の裏には、伸び伸びとした手書き文字で、 携帯番号も記されていた。

その日の昼、ビルの8階にある社員食堂で一人きりの昼食の時だった。突然、「ここ空いていま すか」と、上から声がした。見上げると智博がソバ定食の載ったお盆を両手で持ったままテーブル の前に立っていた。恥ずかしくはあったが、拒否もできずうなずいた。少しだけ周囲の目が気になった。

「今朝は、あのエレベーターに乗り遅れなくて良かったですねー。ギリギリのタイミングでセーフ だったでしょ?」と笑いながら喋りかけてきた。
「今朝は、ありがとうございました。娘の登校に手間どって、いつもの電車を1便乗り遅れてしまったので。おかげさまで、セーフでした。」
「良ければ、近いうちに夕飯でも御一緒して頂けませんか。バツイチ同士ということで。」
「私はバツイチではありませんよ。主人を亡くしはしましたが。」
「あー、それは、バツイチとは言わないのかー。失礼しましたー。」

智博は、既に私の経歴を知っていた。経理部に在籍する自分の同期入社の同僚から聞いていたらしい。彼も独身だったのか。どんな理由でバツイチになったのか、少しだけ興味が湧いた。

「もし良ければ、LINEの交換をしてもらえませんか?さすがに無理ですよねー。」 私は持っていたスマホでLINEのQRコードを開けた。彼は、すかさずそれをチェックすると「橋本智博です。このビルの17階の住人です」と送ってきた。更に、「御都合のよろしい時、是非とも夕食をご一緒させて下さいね」とつけ加えた。

その日の夜「この一週間くらいの間に、お時間とれませんか。」とLINEが入った。2日後の木曜日の夜は、 娘も学習塾で遅くなる。その日を「あまり遅くならないなら」と書き添えて返信した。

その日、私達は、渋谷駅忠犬ハチ公像の前で夜7時に待ち合わせをした。時間を心配してか、 彼は私の手を引き道玄坂をぐいぐい上がっていく。彼の予約していたイタリアンビストロは、道玄坂を右に折れ、井の頭通りを渡りスペイン坂に差しかかった所にあった。
すすめられたイタリアの赤ワインを一杯だけ飲んだ。トスカーナ州のキャンティ-クラシコというワインらしい。チーズとハムのセットとともに少しずつ飲んでみた。彼は、その赤ワインを喉へ流し込 みながら、自分の身の上話を語り始めた。

彼の妻が、突然彼の元を去ったのは、彼が35歳、彼の妻は、その時34歳だった。前日まで、いつもと変わらぬ日々であったらしい。その日、自宅に帰ると、緑色に縁取られた用紙が一枚、テー ブルの上に置いてあった。署名、捺印は済ませてあった。自分を探さないで欲しいと、何度も詫びる言葉の書かれた手紙も添えてあったこと。自分の実家とも縁を切るので、父・母を責めないで欲しいともあった。

「まあ、早く言えば、捨てられたんです。」と言って、少しだけ寂しそうに笑った。

彼も私も、相手に置いてけぼりにされたという意味では同じなのだ。私の中の暗闇が彼の中の暗闇と少しだけ重なるような気がした。

そのような身の上話をした上で、これから、自分とゆっくりで良いので付き合ってもらえないかと云われたのだ。彼は、私のことは何も聞かなかった。夜9時前の、渋谷発の京王・井の頭線に乗り、アパートへ帰った。娘がまだ帰宅していない時間に間に合った。

以来、彼は、私の都合の付く時間に合わせて、食事に連れて行ってくれた。夜を共に過ごすようになったのも、それからしばらくしてからのことだった。

彼は、いろんな本を読むのが好きで、東西を問わず古典にも精通していた。特にギリシャ神話の話が好きだった。

ゼウスとダナエの子、ペルセウスが、女神アテネから磨き込まれた青銅の盾を借り、オリンポス 12神の一人であるエルメスからは金の鎌を借りて、ゴルゴーンの女怪メドゥーサの首を取りに行く話しは特に好きだったのだろう。繰り返し聴かせてくれた。

その頭から無数の蛇が生えているメドウーサの目を見た者は全て石に変えられる。激烈な死闘 のあと、かろうじて、メドゥーサの首を取ったペルセウスは、メドウーサと海の神ポセイドンとの間の 子でもある、翼を持つ馬、ペガススに乗って、母ダナエの待つ国へと帰っていた。その途中、ペルセウスは地上で起きている、ある出来事に気付いた。

エチオピアの女王カシオペアは、自分の娘アンドロメダの美貌が自慢だった。世界でいちばん美しいと周囲に自慢ばかりしていた。そのことが海の神ポセイドンの怒りを買った。そのせいで海獣ケートス(肉食系巨大クジラ)の生贄として王女アンドロメダを差出さなければならないことに なってしまった。エチオピアの民衆は皆、女王とともに嘆き苦しんだ。ペガススに乗ったペルセウス は、海からそそり立つ岩にアンドロメダが張り付けになっている場面に出くわしたのだ。やがて海から姿を現わした巨大な海獣に対し、ペルセウスは持っていたメドゥーサの顔を向けて、その目を見せた。持っている武器の格がまるで違っていたのだ。みるみるうちに、海獣は石へと変わり、 粉々になって海の藻屑と消えていった。こうして英雄となったペルセウスは、助けたアンドロメダ王女と結婚し、7人の子をもうけたのだと か。

その中の一人の息子の嫁の名は、ニーキッペー。勝利の女神である女神アテネの随神「ニケ」 ともいわれている。大理石で造られたニケの彫刻は、エーゲ海のサモトラケ島で西暦1863年に発見された。「サモトラケのニケ」として知られており、ルーブル美術館、ダリュの階段踊り場に設置されている。スポーツシューズメーカーの「NIKE」の社名の由来で、その彫刻像の翼を側面から見た形は、「スウッシュ」と呼ばれ「NIKE」のロゴマーク「 」となった。英国製高級車ロールス・ロイスのフロントグリル前方のマスコット「フライング-レディ」の原型にもなっていると教えてくれた。

ギリシャをはじめとしたヨーロッパや中国、日本の、残酷で恐ろしくもあり、躍動的で切なくもある 神話や物語りを、一緒に寝る度に、寝物語として教えてくれた。私は、そんな不思議な話を聞くのが大好きだった。

妙見ヶ浦の海に立ったまま、智博と出会ってからのことを思い出していた。ニケの様に、両手を拡げて、もう一歩前に右足を進めた。足が海底に届かない。バランスを崩し、海中へと身体ごと投げ出された。

強い力で、沖へと引っぱられてゆく。この潮の流れだったのか、と一旦は冷静に考えていた。岸へと向かって泳いでみたが、身体はそれとは逆に少しずつ沖へと連れて行かれる。しばらく、もがきながらも岸へ向かって泳いだような気もする。やがて、諦めて、智博が私をどこかへ一緒に連れて行ってくれているような、安心した気分になった時だった。何かが私の背中を海面へと押し上げているような感覚があった。息はもう苦しくはなかった。

「生きろー」「生きろー」と、智博の声が、どこからか私に呼びかけている。「生きろー」「生きろー」 と。何度も繰り返される。

急に目の前が明るくなり、激しい咳込みとともに目が覚めた。

ぼんやりと見えてきたのは、60代後半くらいの、白衣を着た少々強面顔の医師だった。私は ベッドの上に横たわっていた。喉に熱い違和感を覚えた。とにかく苦しかった。その医師は私に向 かって大声で、「息をせろー」「息をせろー」と呼びかけていた。咳込みながらも、大きく息を吸った。頭の中は鉄串を刺されているかのように痛かった。

救急外来から移され、ICUと呼ばれる広いホールにいくつかあるベッドの一つに寝ていた。いろ んな電子機器に囲まれていた。翌日、一般病棟の個室に移った。入院同意書を持って看護部長の肩書きのある女性が部屋に入ってきた。私がここに来るまでの経緯を、時々声を詰まらせながら教えてくれた。智博の事故のことも知っていた彼らは、私が後追いの入水自殺を図ったのだと 思っていたのだろう。事実、そうだったのかもしれない。

私は、天草西海岸・妙見ヶ浦の南側の十三仏と呼ばれる岬を一つ越えた、白鶴浜と呼ばれる 美しい砂浜で見つかったらしい。その砂浜のすぐ目の前に、「サンセット・カフェ」という名前のカフェがあり、そのオープンデッキで海を眺めていた人たちが、私を見つけてくれた。その人たちの 話しでは、人が浜辺に打ち寄せられたことに気付いた女性が大声で叫んだとき、その打ち寄せられたひとの下から大きな海亀らしき影が、ゆっくり海中へと戻っていった。すぐに何人かの男性が 腰まで海に浸かりながら、砂浜へと引き上げた。ほぼ同時に救急車が到着し、乗せられ、心マッ サージを受けながら気管内挿管を受け、天草地域医療センターというこの病院へ運ばれたとのこ と。

そうして、私はここの病院で、何とか命を長らえたのだ。

10日間の入院のあと、退院となった。娘は、飛行機を乗り継いで札幌からやってきた。退院までの7日間、私に付き添ってくれた。私が無事に生きていたことを、何度も何度も神様や仏様、天草のひとたちに感謝していた。看護部長さんから聞いた、白鶴浜での海亀のことを話した時、娘は頭を抱えながら「その海亀は、いったい誰だったの!」と叫ぶように泣いた。

退院したあとも、そのまましばらく、天草に滞在した。一週間後にもう一度、病院受診の予定 だった。その間に、娘は再び札幌へと帰って行った。レンタカーで、天草空港へ行き、福岡空港経 由で札幌へと帰る娘を見送った。搭乗受付が始まるまで、人目も気にせず娘は私に抱きついたま ま離れようとしなかった。

ブルーのイルカの絵柄になっている小型のプロペラ機に乗り込む直前、娘は急に振り返り、空港2Fの展望デッキから手を振る私に大きく手を振った。離陸した飛行機が見えなくなるまで見送っ た。

天草の本渡という町の、智博も滞在していたビジネスホテルに泊まっていた時、ロビーに置いてあった観光ガイドで、天草上島の龍ヶ岳という山の頂に、天文台とプラネタリウムがあることに気 付いた。

智博が、いちばん好きだったギリシャ神話の登場人物は、全て星座になっているはずだ。これまで星座に興味を覚えたことはなかった。東京へ帰る前に、一度行ってみたくなった。

借りていたレンタカーでナビを頼りに、そのプラネタリウムへと行くことにした。右手には島々が 連なって見えていた。「不知火」という名前の付いた海の海岸沿いの道から左に折れ山道に入っ た。途中は、車一台すれ違うのがやっとの、曲がりくねった山道だった。すれ違う車は幸いなかっ た。これまででいちばんの急登になった坂道に差しかかった。両側が鬱蒼とした草木に覆われた 暗い切通しの道だ。フロントガラスごしには坂道しか見えない。まだ着かないのかとため息混じり でアクセルを踏み込み、何度もハンドルをきった。突然視界が開け、急に空が広がった。たぶん頂上に着いたのだ。生きることと死ぬことはこんな風につながっているのかもしれない。

そこはキャンプ場としての設備やコテージ、テニスコートやアスレチックもある、空に向かって開 けた広い場所だった。ナビで確認するとここ頂上の標高は470mある。車を駐車場に停め、辺りをあるいてみた。東側は断崖絶壁で、その向こうには海に浮かぶ島々が遠くまで連なって見えてい た。カフェテリアやバーもある山小屋風に造られたキャンプ場受付の建物に、プラネタリウム案内所の看板もみえた。丸太の階段を10段ほど登った。

中に入り、受付カウンターに立った。30代半ば位の男性が応対してくれる。今日の午後5時から の星座の講習会は、私1人きりとのこと。1人分400円の料金を支払った。そこから少し山道を歩いて登り、古びたコンクリート建物のプラネタリウムの入口のドアを開けた。辺りは暗くなりはじめていた。

入ってすぐは、色んな星座の説明が、フレーム写真として飾ってあった。しばらくすると、奥の ホールに案内され、一人、パイプ椅子に座らされたところで照明が落ち周囲は真っ暗になった。秋 の星座の説明をさきほどの受付係をしていた男性が始めた。前面のスクリーンに、星や星座が映し出されはじめた。このプラネタリウムがつくられた頃は、この場所は星空日本一に認定され、最も星空が美しく見える場所として知られていたとのこと。

今年の秋の星座は、夕方、東の空から上がってくるマイナス3等星という最も明るい星でもある木星を、空に見つけることから始まる。夜9時頃になると、木星は南東の空へと上がってくる。その木星の上方に見えるのが、秋の大四辺形を構成する星達で、ペルセウスが、アンドロメダを救っ た時に乗っていた翼のある馬、ペガススだ。ペガスス座を構成する四辺形の左上の星が、アンド ロメダ座で表わされる王女アンドロメダの頭の部分と重なる。

星座の説明を聴きながら、智博が好きだったギリシャ神話の話を少しずつ思い出して;いた。思 い出すと同時に、実際の夜空を見上げたら、智博に会えるような気が、ふと浮かんだ。

東京に戻る前の日、天草地域医療センターを受診した。救急外来で私に声をかけ続けていた 60代後半くらいの強面の医師が診てくれた。血液検査と胸のCT画像やレントゲン写真の結果をみた後、私にニッコリと微笑みながら、「お互い、人生にはいろんなことがありますな。何かの因縁でいただいた命、大切にね。」と言われた。暖かな、名残惜しいような気持ちに包まれたまま病院を後にした。

お昼からは、私が打ち上げられ発見された白鶴浜へと行った。高浜という地区の海岸近くの駐車場にレンタカーを停め、海岸のほうに歩いた。砂浜に寄せるさざ波は波打ち際で帯状に白く泡立つ。海は太陽の光を浴びて煌めいていた。雲ひとつない青空が むしろ悲しく見えた。

砂浜の波打ち際を歩いてみた。砂はきめが細かくみっちりしていた。さざ波の音は、林の中を駈け抜ける風音のようにも聴こえた。

サンセットカフェのお店に入り、店をしておられる若い男性と女性にお礼を言った。カフェラテを 注文した。キッチンカウンターに取りに行くと、そのカフェラテの表面にはクリスマスツリーの模様 がミルクとコーヒーの2色で丁寧に描かれていた。砂浜を眺めながらそのカフェラテを口にしている と、女性がキッチンから出てきて私のテーブル脇に立った。しばらく迷っているようなそぶりをしていた後、目を真っ赤にしながら、この数ヶ月にこの辺りの海で起きた不思議で哀しい出来事につい て、いろんな話しをしてくれた。智博に助けられた家族は、ほぼ毎週のように何度もこの砂浜にお参りにくるらしい。SNSでも話題になっていて、テレビ局が取材に訪れたとも教えてくれた。彼女は、自分も海へと戻ってゆく海亀を見たかった、とも付け加えた。

白鶴浜から右手に見える十三仏と呼ばれる岬にも寄った。高台の岬は、公園になっている。広い駐車場に車を停めて、海側の絶壁の上の展望台へと続く階段を登った。与謝野鉄幹や晶子の 短歌の彫られた石版の横に、海の上にまでせり出して造られたウッドデッキがあった。そこのいち ばん海側の先端に、おそるおそる立ってみた。海に向かって右手には、私と智博が流された妙見ヶ浦の親子2頭の象さん岩、私の立っているこの十三仏の岬をぐるっと回って左後ろ、遥か遠くに白鶴浜が見えていた。とても、泳いではたどり着けない距離だった。

車に戻り、予約していた下田温泉の旅館へ行った。車で20分くらい走ったところに、温泉街は あった。旅館の宿泊台帳に名前を書くときになり、電話で予約していた名前を書くことを迷ったあげく、智博の姓を名乗ることにした。初めて書く、私の新たな名前だった。

智博の見つかったブルーガーデンと呼ばれる高台の岬は、天草での最後の夜を過ごす旅館からは歩いて15分くらいの場所だった。何人かの人が広いウッドデッキで海を眺めていた。一瞬、智博か、と思える男性がいた。2、3人のグループで簡易チェアーに座って、夕陽をみながら楽しそうにシャンパンを飲んでいる。すぐに人違いだとわかった。見上げた空は藍色で、正面には横一直線に水平線が広がっている。太陽は、オレンジ色に輝きながら、その水平線へと近づいていた。 潮騒の音が、寂しく悲しく聴こえた。トビの「ピーヒョロロー」の泣き声が、私が孤独であると伝えているような気がした。

夜になり、一人きりの夕食の後、女将さんに教えられていた外階段を登り、旅館の屋上にでた。 9時頃だった。星空を見上げているうちに首が痛くなり、そのまま床に仰向けに寝転んだ。

白く光る木星の上に、ペガサス、王女アンドロメダ、その足下近くに、メドゥーサの首を持つ勇者 ペルセウス、アンドロメダに襲いかかろうとするクジラ座。アンドロメダの母親でもあるカシオペア座。

あの物語に登場する人々の全てが、この秋の夜空に、存在していた。

ペルセウス座を見ているうちに、そのカタチが、智博と重なっていった。勇者ペルセウスに助けられたアンドロメダと同じように、私は、海亀になった智博に助けられたのだ。ペルセウス座を見付けたら、智博に会えることがわかった。智博は私の中で生き続けている。二人の間の距離がどん なに遠くても。

遠くから、旅館の女将さんが、私が宿泊台帳に書いてしまった名前で「橋本百合子、さーん」と 何度も呼ぶ声がした。私が起き上がると、「あー よかったー」といいながら、ちからが抜けたかのように床に座り込む彼女の姿が目に入った。

東京へ戻り、しばらくした頃、智博がその建設にかかわっていた橋の名前が「天草未来大橋」に決まったことを知った。その名前と同様に、私が生きている限り、智博も、未来永劫、私の中で生き続けるのだ。

掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2023年5月号
発行ナンバー150
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