昨年度初め、天草郡市医師会から、天草市養護老人ホーム等入所判定委員会への参加依頼があった。2ヶ月に一度、市役所にて催されるとのこと。高齢者の介護度判定会議への参加を辞退していたこともあり、今回は引き受けることとした。9月末までに、3回の会議が天草市役所の会議室にて開かれた。
養護老人ホームへの措置入所判定とは、医療や介護からの視点だけではなく、社会的、経済的な観点をも含めた、本人のおかれている総合的な状況を勘案した上でなされる行政的判断である。
行政的判断ではあるが、決して本人に無理強いをするものではなく、あくまでも本人の意思がすべてに優先される。その上で行われる最終的な救済措置なのだ。日本の制度はありがたい。
会議では、本人の生まれてから現在までの履歴が判定資料として提出される。資料には、家族構成や生い立ち、生業、過去や現在の経済状況、現在の生活環境、などなどがわかりやすくまとめられている。それらの情報を総合勘案した上で、最後の質問時間のあと、養護老人ホームへの措置入所判定の採決がおこなわれる。
判定員は、私を含め開業医が2人(うち1人は精神科医である)、その他保健所長、老人福祉施設長、天草市役所担当官2名の、計6名である。養護老人ホームへの入所なので、対象者はすべて高齢者である。
その略歴を読むうちに、自分の過ごした昭和の時代の匂いが感じられてくる。自分が子どもの頃に見た、天草の景色も目に浮かんでくる。父母のこと、兄弟のこと、親戚の人たちのこと。小学校の同級生のこと。初恋のこと。2〜3人のいじめっ子グループから殴られたこと。
思い出しているうちに、やがて自分の略歴が次のような妄想となって浮かんできた。
「1959年1月26日に出生。天草の本渡地区で商売を営んでいた夫婦の第2子、長男として生まれる。地元の小・中学校を卒業後、福岡県久留米市の高校に進学。栃木県にある医科大学へ入学。卒業後、出身高校の所在する県である福岡県へ帰り、医師として勤め始める。卒業後3年目、小児科医として参加していた血友病のこどもたちのキャンプの反省会で知り合った妻と結婚。妻も、北九州市にある医学部付属病院に勤務する小児科医であった。医師となり5年目に天草へ帰る。天草の医療機関に夫婦で勤めた。二男二女をもうける。
43歳の時、天草市五和町にあった医院を事業継承の形で開業。夫婦二人で忙しく診療していたが、その3年後に妻は天草市本渡町にて、小児科医院を別途開業した。還暦を過ぎた頃から、飲酒量が増えていった。その頃から博多・中洲で散財するようになる。前期高齢者となる頃までは抑制も効いていたのだが、その後さらに飲酒量が増加した。アルコールの種類も、シャンパン・ワイン・ウイスキーなど、次第に高額なものとなり、家計的にも窮乏するようになっていった。妻もそのことで、グチを言う日々だったという。
67歳のとき、その頃足繫く通っていた、天草、本渡のスナックに勤める女性と駆け落ちをした。30歳以上も年下の、本人の娘と変わらぬ歳の女性だった。それまで必死になって、2つの医院の経営を切り盛りし、家庭の経済運営を支えてきた糟糠の妻も、堪忍の糸がついに切れ、突然、本渡の医院を閉鎖し、福岡市へ転出した。医師としての業を継いだ息子も天草へ帰ることはなかった。
スナック女性と駆け落ちした本人は、大分県別府市の温泉街にしばらくその身を隠すように滞在していたが、その後フェリーで愛媛県へ渡った。四国各県を転々とした後、岡山、神戸、大阪へと、その居所を変えた。その後何を思ったものか、新潟市をその最終の居場所に定めた。既に、食べるものにも困るほど困窮していたスナック女性は、新潟市の西町通りにあったスナック「シャボン玉」に勤め始めた。信濃川沿い、萬代橋近くの木造2階建てアパートの2階の1室を借りて住むこととなった。
その頃から、本人の酒量は更に増えていき、昼過ぎに起きては日本酒や焼酎を飲み、スナック女性が深夜に勤めから帰ったあとも飲み続ける状態となっていった。新潟の日本酒は実に美味しかったのだという。この頃から、二人の間には喧嘩が絶えなくなっていた。
年末にも差しかかった小雪混じりのある日のことだった。二人が新潟市に住み始めて、半年が過ぎようとしていた。本人に愛想が尽き果てていたスナック女性は、ほんの些細な事からついに激昂し、傍にあった湿った新聞紙を丸め、本人に力任せに投げつけたあとボストンバッグ1つを抱えアパートの鍵も置いたまま部屋を出て行った。
ひとり残されたままの本人には、新潟での冬を越す生活力はすでに無かったものと想像される。
正月過ぎ、本人の誕生日も近くなった吹雪模様のある日、極寒の部屋で、孤独にその生涯を閉じた。享年69歳であった。」
その略歴が、大きな円卓の上に置かれた。古びた羊皮紙に記されたその略歴には、本人が前世で犯した罪、過ち、そしてわずかな功績が赤裸々に記されていた。判定会議の中央には巨大な玉座に腰掛けた閻魔大王。その姿は威厳そのものであり、顔には厳しい皺が刻まれ、目は鋭くすべてを見透かすかのように光っていた。その両傍には十一面観音菩薩、虚空蔵菩薩が座していた。十一面観音菩薩は、無数の顔が彼の罪と功績をあらゆる角度から見つめ、虚空蔵菩薩は無限の記憶力で略歴に記されたすべてを覚えているかのようだった。またその両傍に、観自在菩薩と地蔵菩薩が配置されていた。観自在菩薩は慈悲深い眼差しで略歴を見つめながらも、心の中に隠された虚偽を見逃すことはなかった。地蔵菩薩は、閻魔大王に寄り添いながら、地獄への導きを担当する役目を負っている。
そしてその反対側には、不動明王と釈迦如来が並んでいた。不動明王は燃え上がる炎に包まれ、悪行を焼き尽くす怒りをたたえ、釈迦如来は悟りの境地からすべてを見通す穏やかな目をしていた。その両傍には、文殊菩薩、普賢菩薩が位置し、文殊菩薩は鋭い智慧の剣を携え、普賢菩薩は広大な慈悲の心をもって裁定に臨んでいた。
これら十柱の仏たち、いわゆる「十王」は、それぞれの役割りを担いながら、かれの略歴に目を通していた。その略歴には、幼少期から晩年に至るまでのすべてが克明に記録されており、誤魔化しようのない真実が浮き彫りにされていた。その内容は、彼の目の前に置かれた「浄玻璃の鏡」にも映し出され、本人が否応なく直視しなければならない状況だった。その鏡は、ただの物理的な映像だけでなく、彼が犯した罪の一部始終、心に秘めた欲望、そして他者に与えた痛みまでも、生々しく再現していた。十王の皆でその略歴を読み返したあと、協議は静寂の中で始まった。十王はそれぞれ意見を交わし、慎重に判定を下すべく議論を進めて行った。閻魔大王が重々しい声で言った。
「妄語、邪淫、大酒飲みの罪、これらの罪は重い。だが、反省の兆しも皆無ではない。これらを総合的に勘案し判定を下す。」
彼は緊張の中で、大王の宣告を聞いた。「まずは地獄で諦めの境地となるが良い。妄語、邪淫、大酒飲みの罪のため、まずは大叫喚地獄へ落ちることとする。大叫喚地獄にあるすべての施設を回り罪業の重さを自らの魂で体験せよ。」
その言葉に続き、さらに驚くべきことが告げられた。
「そして地獄を出た後、この世に戻るが良い。ただし、一度目の姿は、昆虫世界でのアブ。次には、そのアブを捕食した両生類のカエル。そのカエルが、もしも青い空を見上げることができた時には、再び人間の姿を与えよう。」
閻魔大王の言葉が響き渡る中、彼は意識を失うような感覚に包まれた。
ふと気づくと、湿って生暖かい、自分の身体が立ったままでちょうど入るくらいのスペースの中にいた。身体の感覚はなかった。四方の壁は濃い灰色で上の方からはかすかな光が差し込んでいた。
自分が一体何者なのかわからなかった。なぜここに居るのかもわからなかった。このあとどうすればいいのか、どうなっていくのかもわからなかった。
自分に手足があるのかどうかも、確認のしようがなくわからなかった。時間の感覚もなく、どのくらいの間ここに居たのかもわからなかった。
遠くから大きな叫び声が聞こえ始めた。それは他の罪人たちの悲痛な声であり、大叫喚地獄の入り口に近づいていることを暗示していた。
頭の上の方に、明るいものが近づいたような気がして、目だけで見上げると、黄色の光のこもった小さなガラス玉のようなものが降りてきていた。目の前まで降りてきた時、とにかくそれを口に咥えた。目と口だけはあるらしい。咥えた玉には細い紐が付いていて、上方へと引っ張られる感覚があった。
次に気づくと、明日の引き落としのための預金残高が足りていないことを思い出した。通帳に振り込むための余裕資金もなかった。スマホでメールを確認すると、証券会社から追証の連絡もきていた。到底、現金で払える金額ではなかった。どうしたらいいのかわからないまま、とりあえずソフトバンクグループの株1万株を売却し、さらに1ビットコインを日本円に交換する手続きをしたあと、目を閉じた。
目を開けると、自分は別の空間にいた。目の前に高層階のホテルがあり、夜の闇の中で無数の光を放っている。いくつかの部屋のカーテンが開けられたまま、中の様子が見えていた。その中の一つに、かつて自分のものだと信じていた女が映っていた。窓にもたれかかるような姿勢で、青い肌を持つ男と絡み合っていた。男と思ったのは人間ではなく夜叉だった。その動き、その光景、その女性の表情すべてが、自分の中の何かを引き裂くような衝撃をもたらした。拳を握り締めるが、次第に力が抜け、ただ目を閉じるしかなかった。
目を開けると、テーブル席にひとりきりで座る焼肉店にいた。周りのテーブルは家族連れや友人達のグループが楽しげに焼肉を囲んでいた。自分の席だけが孤立し、異質だった。自分の家族はいったいどこに行ったのだろう。焼けたばかりの上ロースを口に運んだが、味がしない。ゴムを噛んでいるような食感だけが残った。席を立ってレジに行った。カードで払おうとしたのだが、プラチナのはずのそのカードは既に使用不能となっていた。店員の冷たい視線に耐えきれず、目を閉じた。
次に目を開けると、薄暗いバーカウンターの隅にいた。店内には低く単調なリズムのジャズが流れていた。自分は縮こまるように座りカウンターの上の水割りを飲んでいた。だんだん視界が狭くなる中で、遠くのダンスフロアに揺れる人々の姿を見つめていた。ここは語尾上がりのクラブなのかなぁと懐かしく思っていた。疲れて頭が働かない。家に帰ろうと重い身体を引きずるようにして、川沿いのアパートに戻った。ドアには鍵がかかっていなかった。小さな電球をひとつだけ点け、脚を折りたたんだ小さなテーブルを出した。
冷たくて暗い部屋の中であぐらをかき、湯呑みに注いだ日本酒を飲み続けるが、味もせず酔う感覚もなかった。
突然、ドアが開き、若い女がひとり、部屋に入ってきた。見知らぬ顔だった。彼女は何かを叫びながらこちらを睨みつけている。怒りの形相のまま床に転がっていた湿った新聞紙を掴み、それを両手で丸めてこちらに向かって投げつけた。
額の右側に鈍い衝撃を感じたが、痛みはなかった。。女はそのまま部屋を出て行った。
凍える寒さの中で、自分の身体が思うように動かない。視線を下に向けると、股間が濡れていることに気づくが、それが何によるものかもわからなかった。ただ、凍り付く感覚だけが鈍く続いていた。そのまま眠るかのように目を閉じた。
再び目を開けると、正面に三面鏡の鏡台があった。横の鏡を覗いてみると、さっきまでいたはずの川沿いのアパートの部屋の中の景色が映っていた。初老の男が倒れ込んでいた。その姿を見つめていると、鏡の奥のさらに奥にも同じ光景が延々と繰り返し続いているのに気づいた。終わりのない無限ループだった。
そこでまた意識が途切れる。そして気がつくと、また湿った空間に戻っていた。立ったまま身動きが取れず、灰色の壁に囲まれているーーー また始まる。終わらない、永遠のループだった。
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ここまで書いたところで、中洲のクラブへ飲みに行こうとしている自分に気がついた。
掲載情報
掲載誌 | 天草医報 |
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掲載号 | 2025年1月号 |
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