人間万事塞翁が馬 Written by Eiichi Nakamura

父の入院

天草医報

 父は,昭和4年生まれ。今年8月に87歳になります。昨年の秋頃から食欲が徐々に低下し,年末には全身倦怠感を訴えるようになっていました。加齢による虚弱のせいだろうと考えていました。
1月初め,松の内も開ける前のことでした。悪寒と戦慄,ひどい倦怠感を訴えたため,朝の診療前に様子を見に行きました。発熱して赤い顔できつそうにしていました。とりあえず自分の診療所へ連れていき,血圧測定すると収縮期が90台とやや低下。天草地域医療センター循環器科へ電話相談し受診させました。しばらくして,担当医から電話で「造影CTにて両側肺に広汎な浸潤影が認められARDSの状態と考えられます。しかも,すでに重篤な状態です。」と告げられました。急いで外来診療を切り上げセンターへ向かうと,外来待合室に母が不安げな顔で座っていました。外来処置室には酸素マスクをあてられた父がベッドに横になっていました。補聴器をつけても聞こえにくい父との会話は,磁気ボード(お絵かきせんせい)を使っての筆談で行っていたため,どう声をかけてよいものやら分からずにいました。そこへ循環器科のK先生がみえて,①重度のARDSの状態であること,②その原因として敗血症が疑われること,③酸素マスクで15L/minまであげてもSpO2 90%を維持できなければ人工呼吸器を装着してICU管理になることを説明されました。そのとき私は「ああそうですか」と答えることしかできませんでした。これから父がどうなるのか,あと数日はもつのかなどと,ぼんやり考えていると,妻も駆けつけてきました。先ほどK先生から告げられた内容を話すと「えーっ!」と声をあげました。「人工呼吸器管理になるのなら,眠らされて意識がなくなる。もしARDSが改善しなければ,意識が戻らないまま亡くなることになるかも」と妻が言います。初めて,私も事の重大さに気づきました。いまだ呆然自失している私を置いて,妻は,待合室にいた母を連れて磁気ボードを片手に処置室へ入っていきました。そして,酸素マスクの父に「お薬で今からしばらく眠ることになります」「がんばって。また,必ず会えますから」と筆談で告げています。母は大声で(不思議と母の声だけは聞こえるようです)「すぐに良くなるけん。絶対よくならんば。がんばらんば。」などと懸命に話しかけます。これが今生の別れになるのかもしれないと察した父は嗚咽を漏らし始めました。母も妻も一緒に泣きだしました。私はその様子をただ呆然と眺めることしかできませんでした。ちょうどその時のことです。ベッドサイドにいたK先生と血液培養の採血中であった看護師が急に同時に風邪をひいたのかなと思える様子になりました。鼻水を啜っておられるのです。風邪をひいたのではなく,マスクの奥で一緒に泣いて下さっているのだと気づきました。患者家族である私にとって,とてつもなくありがたく,一生忘れようのない光景でした。
ところで,手塚治虫の代表作「ブラックジャック」において,天才外科医ブラックジャックは,神業ともいえるテクニックによる治療の対価として法外な報酬を患者に請求します。一方で,表向きの冷徹な顔とは裏腹に,シャイではあるが人間性にあふれた医師としての一面ものぞかせます。
第180話「土砂降り」という作品では,飛行機の中での緊急手術のためメスを貸してくれた恩人を訪ねて,ブラックジャックは小さな離島へ渡ります。恩人は1年前に島の崖崩れで亡くなって,その妹が「島のたった一人のお医者さん」として働いていました。暴風雨のためその家に泊まることになったブラックジャックは,集団食中毒にみまわれた島の人たちのために孤軍奮闘するその女医に好感を持ちます。自分には一人での診療はできないんじゃないかと,つい弱音をはく女医に,ブラックジャックは言います。「問題は特技とかやり方なんかじゃなくて,島の人たちのためにどうやり通せるかということでしょう」と。
医療の知識や技術よりも,まず苦悩を抱える患者の傍らに寄り添い共感することが大切であると,ブラックジャックの口を通して,手塚治虫は言いたかったのでしょう。
天草地域医療センターの病院理念の中に「医の心」という言葉があります。その最初の一文に「患者さんの悩み,苦しみ,痛みに共感する心」とあります。外来処置室で,父のベッドに寄り添っていて突然鼻炎になってくださったK先生と看護師は,まさしくその「共感する心」をお持ちだったのだと思います。患者や家族の苦しみに共感し,何とか治して,苦しみを取り除いてあげたいという強い思いこそが,新たな医療技術や知識獲得へと邁進する原動力になるのではないかと考えます。
約3か月半の入院(うち2回にわたり延べ3週間のICU管理)のあと,父は無事退院することができました。まだ,ICUAWといわれる虚弱状態にはありますが,毎晩ビールで晩酌し,生きていることのありがたさをかみしめているようです。
この場を借りて天草地域医療センターのスタッフの皆さまに心より厚く御礼申し上げます。