十万山の四季Ⅻ 「コロナ戦場のメリークリスマス」

(ⅰ)カップ氷売り切れ の件

昨年の11月18日、金曜日だった。翌日の土曜日は休診にして、午後から博多へ出た。3時間余りの運転で、ようやく博多区下呉服町に在する自宅マンションに到着した。入浴し、缶ビールを一本飲んだ頃だった。携帯の着信音が鳴った。嘱託医を勤める特別養護老人ホームからの電話だった。施設長からの直々の電話だった。「施設全部で11ユニット(1ユニットは、9の個室が一つのホールを囲むかたちで構成されている)のうち、隣り合わせの2ユニット、18名の入居者の方々から5名のコロナ陽性者が出た。そのユニットに勤務する職員も数名、陽性となった。今夜、対策会議を予定します。先生は、何時頃からなら大丈夫でしょうか。」と告げられた。腕時計を見た。午後5時半頃だったろう。今すぐここを出て、タクシーに乗り、福岡空港へ行けば、天草エアライン最終便で帰れるギリギリのタイミングだった。迷わず、すぐに家を出て、タクシーを捕まえた。
空港から飛び立った天草エアラインの窓からは、燦めく福岡の夜景が、やけに切なく愛おしいものに見えた。夜8時前に、天草空港に到着。迎えに来た妻の運転する車で、真っすぐに施設へと向かった。8時すぎから施設長室にて、各職種の責任者を集めての対策会議が始まった。その頃には、さらに抗原検査陽性者の数が増え、施設クラスターとなったのが確定してい
た。
 まず、どの場所で戦うかを最も迷っていた。ユニットは、まん中のホールを取り囲むように、9の個室がある。それぞれ自分の個室に入居されたままでは、感染者と非感染者の間で、連続した介護業務に支障を来たす。PPEを着脱するスペースがない。また、プライバシーを重視してある構造は、状態の観察に不向きだ。入居者用の施設本体とは別に、デイサービス専用の建物が隣接して存在することに気付いた。施設長に尋ねた。クラスター発生後には、デイサービスはどうなるのかを。すると、クラスター収束までは、デイサービスは停止しますとのこと。施設長と二人でデイサービス用の建物に入った。そこは、体育館のような広いホールを中心に、その周囲に入浴設備やトイレ、事務スペースが作られている構造だった。ホールには、食事用のテ-ブルとイスやソファーが、20-30人分程置いてあった。そのテーブルやイス、ソファーを外に出して、ベッドを持ち込めば、コロナ感染者専用の病棟へと変化できることが分かった。それを提案した。
 翌日朝から、大移動を開始することとなった。その日の夜から、施設への泊まり込みを開始した。家族待機室として存在する畳部屋に布団を敷いてもらい、そこを当分の間、自分の寝床にすることにした。その部屋には、ウイスキーボトルも持ち込んだ。翌日には、クラスターは15名に増えていた。2ユニット、18名のうち、15名のクラスターである。他のユニットからは陽性者は出なかった。デイサービス専用建物の、大模様変えが始まった。午前中のうちに、デイサービス専用建物はレッドゾーンとしての再構築がなされた。PPEのための物品の備蓄の設置、ビニール織布を天井から吊り下げての空間隔離、消毒アルコール類の準備。午後からは、クラスターユニットから、外を通っての、陽性者の大移動が始まった。併せてベッドも移動した。15床のベッドを全て見渡せる位置に、看護師用の机を置いた。そこを、司令塔とした。カルテや、いろんな薬剤、医療用機材も、その机の横の棚に準備させた。施設看護師は、日中は2名、夜間は1名常駐とした。介護士も日中は3名、夜間は1名
が常駐となった。
 そこからは、毎日、昼の休憩時間もなく、診療の日々が始まった。午後3時からは、自院でのコロナワクチンの予約もいっぱいだったため、午後12時過ぎからの2時間が、クラスター病棟の回診時間となった。施設看護師も次々と、コロナ陽性となったため、自院看護師を一人常駐させた。感染者のほぼ全員に対して、毎日のように血液検査を行った。誤嚥性肺炎を合併していると思われる方々が多かった。
夕方は、一旦大矢崎の自宅に戻り、食事、入浴のあと、毎日施設に帰り、泊まった。アルコール無しでは寂しくて、近くのローソンで、カップ氷を買った。家族待機室のテーブルには、キープボトルを置いていた。毎晩、9時頃が、施設への帰宅時間となった。カップ氷にウイスキーを注いで水割りを作り、ゆっくり飲んだ。時々、施設看護師から、不安な患者についての相談もあり、深夜帯にPPEを付けて診察に入ることもあった。電話相談は、頻繁にあった。自分にとっての重要な使命は、とにかく、不安を抱えながら一晩中看護業務にあたる施設看護師のそばにいてやることだと思っていた。そうやって、15日間の宿泊待機が過ぎていった。
 クラスターが終了する間近のことだった。前日の夜、家族待機室横の事務室の片隅に置かれている冷蔵庫の冷凍庫には、ローソンのカップ氷の買い置きが、無くなっていることを知っていたため、施設に入る前に、その購入のため施設近くのローソンに寄った。ローソンのアイスの棚に行ってみると、いつものカップ氷が、在庫切れになっていた。今夜は氷なしの水割りにするしかないなと諦めた。施設に着いて、一応、冷蔵庫を確かめようと事務室に入った。冷蔵庫の冷凍室引き出しを開けると、その引き出しは、ローソンのカップ氷でいっぱいになっていた。施設クラスターが収束したのは、12月3日のことだった。

(ⅱ)Merry Christmas Mr.Lawrence

12月3日の土曜日、嘱託医を勤める高齢者施設のクラスターが収束した。午後から入った診察は2,3名で簡単に済んだ。その後いつもの様にマウンテンバイクでの十万山登山行をした。
 その3日後の火曜日だった。医師会事務局からの電話で、障害者施設クラスターの医療支援に入ってもらえないかと依頼された。12名ほどの入所者の方がコロナ陽性となり、職員も十数名、感染しているとのことだった。施設までは、二江の自院から、車で約15分と近かった。承諾し、その日の午後から自院の看護師二人とともに、車のナビを頼りに、施設へと向かった。
 施設へと到着し、医務室へと案内された。施設の廊下を歩きながら、なんとなく暗く、冷たい印象を持った。多分、残っていた職員の方々の表情から浮かぶ緊張やいつもとは異なる施設の閉鎖的な状況が、自分の心にそう映ったのだろうと思う。
 医務室には、施設の看護師が一人待機していた。わずか一週間前に入職されたばかりとのこと。もう一人のベテランの方の施設看護師は、コロナ陽性となり、自宅療養中であるとのことだった。12月に入職されたばかりの施設看護師も、その表情から、入職したばかりで突然起きた事態に、どう対処すれば良いのか、不安とともに、とまどっておられる様子に見えた。こちらからの質問にも、すぐには応じてもらえない。まだ入所者の方々のことを把握されていないせいだろう。
 コロナ陽性になられた施設の入所者の方たち12名のほぼ全員には、既に、他院よりラゲブリオの処方がなされていた。その中で、1人が昨夜より、嘔吐を繰り返しておられるとのこと。イレウスの既往もあるとのことで直ちに天草中央総合病院院長に相談すると、すぐに心良く、転送を受けて下さった。やはり、イレウスの診断で、後日手術となったと聞いた。コロナ陽性となられた12名の方、全員の診察をした。その他数名、午前中の検査では陰性の確認がなされていた発熱者がおられたため、あらためて自院から持参したキットで抗原検査をしてみた。その全員が陽性となられた。
 障害者施設でのゾーニングは、極めて難しい。自分の頭で、施設の構造とコロナ陽性者のおられる部屋の分布を、何度繰り返して考えても、ゾーニングの仕分けをどうすれば良いのかが分からなかった。毎日施設へと通った。毎日毎日、陽性者の追加発生があり、1週間後には、全部で60名程の入所者のうち、36名の方が陽性となった。全員の診察には、2時間程の時間を要した。いろんな居住スペースに分散して、そのほとんどがベッドではなく、床に敷かれた布団で臥床しておられるため、診察には脚力が要った。診察すると同時に、発熱の続いておられる方や食欲低下のある方、体動の少ない方では、採血や注射も併せて行った。その頃には、自宅療養していたベテラン施設看護師も復帰され、12月に入職したばかりの施設看護師の顔にも、笑顔がのぞけるようになってきた。その後、入職されたばかりの看護師も、陽性となられ自宅療養となった。施設看護師の二人がともに不在だった日には、自院看護師を常駐させた。
 クラスター発生から10日程経った、週末の日曜日のことだった。午後から施設に訪問する予定だったので、午前中に十万山へサイクリング登山行をした。十万山を降りてきて、本渡の銀天街のアーケードをいつもの様に通る。天草ポルトの辺りに、人だかりがあり、ちょっと気になり、近寄ってみた。こどもたちのダンスサークルの発表会をやっていた。ポルト3階でのピアノの発表会の案内があるのに気づいた。ピアノ曲が聴きたくなり、サイクルヘルメットを脱ぎマスクをはめ、エレベーターに乗った。受付で、名前と住所、電話番号を記入した。ピアノ演奏会のホールに入り、出入り口に最も近い、一番後ろのイスに坐った。しばらく、こどもたちが弾くピアノ曲を聴いていた。数曲のピアノ演奏を聴いた頃、20代くらいの姉妹と思われる2人の女性が舞台に上がった。弾き始めたのは、今から40年前、私が医師になった年に公開された、大島渚監督、坂本龍一、ビートたけし、デヴィッド・ボウイらが主演をつとめた映画の主題曲「戦場のメリークリスマス」だった。その旋律は、哀しく、深く胸に届く。
 その翌日の、施設訪問の時のことだった。ゾーニングのため、4畳半程の狭い部屋に、3名の入所者の男性が、入れられていた。入って一番左側にはベッドが置いてあり、男性の利用者さんが臥床している。その右側の畳には布団が2組敷かれていた。最も新しく発熱した方が、一番右側の布団に寝ておられた。布団をめくり、診察をしていた時だった。67歳になられるその男性の枕元に、一枚の白黒写真が置いてある。思わず、その白黒写真を、手にとって見た。それは阿蘇の噴火口をバックに、兄弟・姉妹5人が写った写真だった。皆が仲良くピースサインをして、こっちに向かって笑っていた。その当時、12歳ほどだったと思われるその入所者の方は、上から2番目。4番目と5番目は、とても可愛らしい女の子だった。施設看護師は、この方は、この写真を必ず自分の枕元に置いておられますと教えてくれた。今から、55年程前の写真だ。思わず、その入所者の方に、「この妹さん二人は、今はどこおらすとー?」と聴いてみた。するとその方は「学校に行きよる」と応えられた。一瞬、学校の先生になられたのか?と考えたが、すぐにその本来の意味が分かった。彼の中では、この55年という時間が、そのまま止まっていたのだということに。
 次の週末は、クリスマスだった。コロナ第8波は、ますます隆盛となっていた。そのクリスマスの日は、二江のクリニックが小児科日曜当番医だった。数日前に医師会副会長も務める本渡の泌尿器科クリニックの院長より連絡があっていた。発熱外来の応援に来てくださるというのだ。丁重にお断りをしたのだが、是非とも手伝いをしたいと云われる。有難く、お受けした。
 12月25日の日曜日、朝から発熱外来の患者さんたちが、満ち潮のように押し寄せてきた。自院の発熱外来は、既に使用されなくなった診療所の病棟ナースステーションで行っていた。発熱外来者の待機室は、入院室を使っていた。彼はPPEを身にまとい、次から次に来院する発熱外来患者のコロナ検査を、ずっとそこを動かず、一手に引き受けてくれた。1日で80人近くだった。その姿は私にはサンタクロースに見えた。青い衣装のサンタ服を着た。

(ⅲ)春の野を行く

クリスマス明けになり、障害者施設のクラスターは、やっと落ち着いた。施設に対して最初に感じた、冷たく暗い印象は、見事なまでに様変わりして、明るく暖かい雰囲気に変わっていた。今回は収束するまで、20日間程要した。
 大晦日まで一週間を残すだけとなった。しかし、その年末年始は、12月29日と1月3日が、天草市小児科当番医に当たっていた。28日までは、通常の診療だ。12月30日から1月2日までの年末年始は、夫婦で博多でゆっくりと過ごす予定としていた。しかし、コロナの第8波の流行は、ますます勢いを増していた。大晦日まで3日を残す時のことだったと思う。医師会より、大晦日の小児科当番医を緊急で、あと一件、どこか引き受けてくれないかとのFAXが送られてきた。天草下島、上島地区では、小児科当番医が居らず、大矢野島で一件のみ当番医があるのみだったからだろう。今回の年末年始は、天草への里帰りが大挙して訪れることが予想されていた。3年振りの行動制限のない年末年始なのだ。孫たちの顔をみたい、抱きたいと切に願う祖父・祖母たちが待ちわびている。家族とともに年末年始を過ごしたいとの思いは、天草ご出身の方達の中で膨れ上がっているはずだ。なんとかその帰省を無事に過ごさせてあげたいとの、医師会長をはじめ医師会関係者の方々の祈りを、そのFAX用紙に書かれた文言から感じた。何度も何度も繰り返し読んだ。その医師会からの依頼に、なんとか協力したいと思った。
 しかし、診療は医者一人が出てもどうにもならない。受付・事務も、看護師も、駐車場整理係の人間も必要だ。十万山クリニックのスタッフに尋ねてみたが、小さい子どもたちの居る家庭環境のため、なかなか直前での日程変更は難しいようだった。出来れば、天草の中心である本渡での当番医としたい。場所は、十万山クリニックでと決めていた。二江の自院スタッフに頭を下げお願いしてみた。看護師や事務員は、やや顔を強張らせながら首を縦に振ってくれた。自院の男性運転手は、いつも通りの表情で駐車場の整理係を引き受けてくれた。こうして、二江の診療所のスタッフと、妻を事務の補佐係として参加させることで、何とか人員の確保が出来た。
 本渡にある内科クリニックの院長医師から、発熱外来の応援に来たいとのありがたい申し出があった。前回のクリスマスの日と同様、発熱外来で抗原検査専任として、1日居てくださるというのだ。大変心強く、来ていただくことにした。その体制で、準備が整った旨を、医師会へ伝えた。
 その日の午後、嘱託医を勤める高齢者施設から連絡があった。前回とは異なるユニットでコロナ陽性者が3名出た。職員からも2-3人の陽性が出ていて、クラスターとなることは必至だった。診療後の夕方、施設へと向かった。ゾーニングの手配は済んでいた。陽性の入所者の方全員に、ラゲブリオの処方をした。今回、クラスターとなったユニットは、他のユニットとは、渡り廊下で繋がれてはいるが、隔離の容易な別の建物にあったため、陽性者の移動はせず、そのままそこのユニットで戦うことにした。昼休みと診療後の夕方の2回、施設へと診療に向かう。クラスター収束まで、2週間程要するのは確実だった。
 いよいよ大晦日となった。朝8時40分頃に、十万山クリニックに歩いて行くと、既に、内科クリニックの院長は到着されていた。発熱外来の検査室も含め、クリニック内の案内をかねて一緒に院内を一周した。トイレの場所も確認して頂いた。十万山クリニックの発熱外来は、職員通用口から入ってすぐの3畳ほどの狭い部屋だ。この狭い部屋で、一緒に今日一日戦っていただけるとは、申し訳ないと同時に感謝の念で、胸がいっぱいとなった。結局大晦日は、100人弱の外来者数、そのうち発熱外来は、60名程となっていた。
 元旦は、午前中は高齢者施設クラスターの医療管理を行った。昼前からいつもの様に、マウンテンバイクでの十万山登山行に行った。9合目の藍の風香る丘から見える本渡の街や有明の海、遠くに望める雲仙岳や湯島は、気温が低いため空気が澄んでいるのだろう、いつもより一際色鮮やかに見えた。
 翌日 2日も、午前中は高齢者施設の医療管理に出かけた。午後からは、夫婦で倉岳に行ってみることにした。車で、栖本町側から登った。一週間前に降った雪が山肌のところどころに残っている。そのまま山頂駐車場まで行き、倉岳神社へ初詣をした。天草で最も標高の高い倉岳山頂からは、青空の下、昨年、医療支援として参加した施設が、あちこちに点在して見えていた。その景色はコロナ禍など全く関係なく、いつも通りの景色だ。たったこの半年の間におきた医療支援のことなど、何か遠い過去の遠い場所での幻のことだったような気がしていた。 般若心経にもあるように、一瞬は永遠であり、永遠は一瞬なのだ。一瞬と感じるのも永遠と感じるのも、結局人間の心次第なのだなと、妙に納得した気分だった。長いと感じる自分の人生もきっと一瞬の夢みたいなものなのだろう。
 翌1月3日は、二江のクリニックが小児科当番医だった。帰ってきた浦島太郎状態である。現実はじつに厳しい。コロナ第8波の勢いは止まらず、総外来者数は105名、うち70人近くが発熱外来だった。コロナだけでなくインフルエンザAもちらほら出始めていた。
 1月8日は、再び十万山クリニックでの小児科当番医だった。受診者数は、84人と多くはあったが発熱外来者数は40名とやや減少していた。インフルエンザAが6名出ていた。感染性胃腸炎と思われる嘔吐や下痢症状のこどもたちが増加していた。コロナ感染症より病状は重くみえた。
 1月10日頃、嘱託医を務める高齢者施設の2度目のクラスターは収束した。
1月下旬頃からは、次第に、発熱外来の数が減っていくのに気付いていた。検査での陽性率も下がっていった。
 2月5日、妻が前日から倦怠感を訴えていたため、一人残して行ってしまうのも躊躇われ、またもや博多へ出るのを諦めた。朝から車にロードバイクを積み込み、ひとり、ロードバイクの旅に出ることにした。牛深の温泉、やすらぎの湯の駐車場に車を停め、ロードバイクにまたがった。深海~山の浦~久玉~ハイヤ大橋~茂串~魚貫~二浦~早浦~やすらぎ荘へと戻る、天草下島南部一周約60kmの旅だ。楽しみは、昼食の牛深海彩館での刺身定食だ。咲き始めた河津桜や梅など、すでに春の気配が漂っていた。枯草の野原や田畑の間を通る道を、ロードバイクは軽快に進む。ピアニスト村松健作曲のピアノ曲「春の野を行く」が心の中で響いていた。出発して3時間後、駐車場に着いた。妻へ電話をした。すると、発熱があるという。温泉を諦めてすぐに帰途に就いた。十万山クリニックに寄り、コロナ・インフル同時抗原検査キットを持って、自宅へ。妻の鼻腔に綿棒を入れ、検査をした。インフルエンザAを示す部位に、はっきりとラインが現われていた。

掲載情報

掲載誌天草医報
掲載号2023年5月号
発行ナンバー150
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